か」
「これの兄さんなんぞは、またどうして……」
お蘭が、はしゃぎついでに、何か素破抜《すっぱぬ》きをやり出しそうなので、周章《あわ》てて盃を下に置いた若い番頭は、
「ああ、どうぞもう御免くださいまし、それをおっしゃられますと、消えてしまいとうございます」
「何のお前……」
とお蘭さんは、多少の御酒かげんでけっきょく面白がって、
「何のお前、恥かしいことがあるものかね、お前の兄さんなんぞは、高山第一の穀屋のお内儀《かみ》さんに惚れられて……」
「どうぞどうぞ、御勘弁くださいまし」
「勘弁どころか、お前の方から堪忍分《かんにんぶん》を貰いたいくらいのものだよ。高山第一の穀屋のお内儀さんに、この人の兄さんの浅さんというのが、すっかり可愛がられちまいましてね、御前……」
「もうたくさんでございます、もうおゆるし……」
政吉は盃を下に置くと、身を翻えして、あたふたとこの場を逃げ出してしまいました。それを抑えようでもなく、あとでは、新お代官とお部屋様の高笑いがひときわ賑わしい。
二十九
これより先、あんな喜び方で、竜之助にしばしの暇乞《いとまご》いをしたお雪は、自分の座敷へ取って返すと、同時に気のついたのはこのなり[#「なり」に傍点]ではどうにもならないということでした。内にいる分には何でもいいが、外へ出るには、これでは……と悄気返《しょげかえ》ったのも無理はありません。あれ以来今日まで、まだ町へ下りたことのないのに、これでは仕方がない、ほんとうに貰い集め、掻集め同様の衣裳で身をつくろっているという有様ですから、全く出端《でばな》を挫《くじ》かれてしまいました。
といって、買物を止める気にはさらさらならない、と、目についたのが、衣桁《いこう》にかけた例のイヤなおばさんの形見の小紋の一重ねです。あれを引っかけて行こうか知ら、あれなら、どうやら外聞が繕《つくろ》えるが、気恥かしいばかりではない、見咎《みとが》められた時の申しわけにも困りはしないか。
といって、やっぱりこの場は、あれを着て行くよりほかはない。いっそ晩にしようかと思いましたが、夜は物騒であって、とても一人で出て行けるものではない。これにひっかかったお雪ちゃんは、ほとんど当惑に暮れてしまったが、ふと、壁に寺用の雨具のかかっているのを認めました。
雨具というけれども、それは雪具といった方
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