のに、そのいい心持が手伝ったのですから、
「君、いったい、君は年は幾つだね」
と、湖海侠徒雲井竜雄の方に膝を押向けたのから、そもそも、喧嘩白雲の地金がころがり出したのです。
「弘化元年三月二十五日、辰の刻に生れたよ」
こう答えられてしまったので、白雲が暫く二の句がつげなくなってしまいました。
弘化元年三月二十五日辰の刻生れまで言われてしまったのでは、戸籍役人としても、このうえ難癖《なんくせ》のつけようがないではないか。田山白雲がちょっと手がかりを失って、力負けの形となって、二の矢がつげないでいたが、そこで引込む白雲ではなく、盛り返してからみついたのは、
「生れ故郷は、出羽の米沢だとおっしゃいましたね」
「左様左様、出羽の米沢の吾妻山《あずまやま》の下で生れたのだ」
出羽の米沢だけなら無事だったが、吾妻山と言ったので因縁がついたらしい。
二十
「出羽の米沢――謙信公の上杉家は知っているが、吾妻山なんて山は知らない」
白雲がこんなところに因縁をつけてからみついたが、雲井なにがし[#「なにがし」に傍点]は取合わない。酒によって悪いところが嵩《こう》じてきた白雲は、
「米沢の吾妻山なんて名乗っても、米沢だけの天地では通るかも知れんが、他国の人に名乗り聞かせる場合には通らない、出羽の米沢の、謙信公の上杉家の、その家中の、何のなにがしと、お名乗りなさい、吾妻山なんていう山は名山|図会《ずえ》の中には無い」
「ふふん」
児島なにがし[#「なにがし」に傍点]が、冷笑して問題にしないから、田山白雲が躍起となりました。
この男は、駒井甚三郎に対すれば駒井甚三郎に対するようになり、児島なにがし[#「なにがし」に傍点]に対すれば、またそのようになる。
「関東では、山として高い方では日本一の富士、低いけれども名に於て、このもかのもの筑波《つくば》がある。高さにして富士は一万五千尺、山も高いが、名も高いことこの上なし。筑波は僅かに数千尺――山は高くないが名が高い。米沢の吾妻山なんて、山も高くない、名も高くない……いったい、その吾妻山なるものの高さは、何尺あるのだ」
白雲が、しつこくからみついたのは、やはり相手が相手だからでしょう。その相手が、今度はそれに対して抜からず、次の如く答えました。
「左様さ、吾妻山の高さは、高くて五尺五寸というところだろう」
「ナニ?」
「吾妻山の高さは五尺五寸だ」
「五尺五寸とは何だ」
田山白雲が威丈高《いたけだか》になりました。
それはこの青年に対して、あまり大人げないようでしたけれども、酒興に乗じたとはいえ、高さ五尺五寸の高山とは、この青二才、人を愚弄《ぐろう》した挨拶だ、と憤慨したのも無理はありません。
そこで、白雲が、いきなり猿臂《えんぴ》をのばしたのは、この青二才をなぐろうとしたのです。
「まあ、待ち給え」
と青年武士は、白雲の憤慨を軽く受けとめて、微笑を含みながら次の如く言いました。
「拙者の家の書斎の窓は六尺だ、その六尺の窓から見ると、吾妻山の全体が見えて、まだ四五寸余る、それによって測量すると、あの山の高さは、まさに五尺四五寸のものだろうと思う」
「ハ、ハ、ハ、ハ」
嬉しそうに笑ったのは、この家の主人です。
「それは全く間違いのない測量でございます、六尺の窓へ入りきる山は、五尺四五寸以下でなければなりますまい」
そこで、白雲がまた白《しら》まされてしまいました、これは喧嘩にならないと思いました。
同時にこの青年は、鬱屈《うっくつ》たる怪物であると共に、湧くが如き才物であることを、思わせられて、どのみち、非凡の男には相違ないが、どうも非凡過ぎるところがあると、それが気になり出してきました。
そこで、小谷の主人が、うまく調子をつくったものですから、風雲は頓《とみ》に納まり、三人ともに快く飲むことになります。
やがて、白雲が、前途の目的を話して、自分は仙台の松島へ行くのだ、松島へ行くのは、あながち風景を見んがためではない、「永徳」を見んがために、松島へ行く気になったのだ――ただ一人の「永徳」にあこがれて、矢も楯もたまらぬ思いで、松島まで単騎独行するのだという意気を見せたが、一座があまりその興にのらないのを不足とします。
興に乗らないのみならず、右の青年武士は、その「永徳」とは何だと反問して、豊臣時代の狩野《かのう》の画家の名であることを知り、今日のこの時勢に、一枚の絵を見ようとして、陸奥《みちのく》まで出かける閑人《ひまじん》……一人の画工にあこがれて、千里を遠しとせざる愚物が存することを冷笑しました。
二十一
「だから君等は話せない」
今度は青年武士の冷笑を、白雲が、軽く受けて争わず、かえって諄々《じゅんじゅん》として教えるの態度をとりました。
「一枚の絵と言うても、君たちはまだ一枚の絵の味がわかるまい、一人の画工と言うけれども、一人の画工の持つエラサが、君等にはわからないのだから情けない」
と言って、白雲はまず、慷慨して、次の如く論じました、
「君たちに、あの時代の歴史を言わせれば、太閤ノ時ニ方《あた》リ、其ノ天下ニ布列スル者、概《おほむ》ネ希世ノ雄也、而シテ尽《ことごと》ク其ノ用ヲ為シテ敢ヘテ叛《そむ》カシメザルハ必ズ術有ラン、曰《いは》ク其意ニ中《あた》ル也、曰ク其意ノ外ニ出ヅル也――程度で尽きるだろう。同時に人物を論ずれば、家康、如水、氏郷、政宗、三成、清正、正則、それに毛利と、島津あたりのところで種切れになるだろう。そのほかはあってもよし、無くてもよし――君たちの粗雑な頭で見る歴史と人物は、おおよそ、その辺が止まりだ。そのほか日本の貿易界に誰それがあり、発明家、美術家に誰、思想家に誰、学者にこれというようなことは、ほとんど頭にござるまい。それは君たちが悪いのじゃあない、日本の歴史の教え方が悪いのだ。天下を取ったとか、取られたとか、相場師の出来そこないのような奴、コケ縅《おどし》の鎧《よろい》を着て軍《いくさ》をする奴でなければ、日本には英雄が無いように、子供の時分から教育がそう教えこんでいるようなものだ。そこで君たちはじめ、日本人のこしらえた歴史は、まるで材木だけで組み立ったガランドウみたようなものだ、骨組みだけはどうやら出来ているが、壁も無ければ障子もない、まして室内の装飾と、調度なんというものは全然頭に無いのだ、日本の国家というものは、材木だけで出来ているように教えられているから、歴史を語っても、人物を論じても、その辺で、おおよそ種子が尽きてしまう。人間の住む家として、骨組みばかりのガランドウが何になる、人間らしい家は、人間らしい内容を持たなけりゃならんのだ。時代は英雄豪傑に骨組みだけを作らせるかも知れないが、その内容整斉というものは、全く違った人々の手にあることを君たちは知らない。知らないのは、教育が知らないように仕組んでいるのであって、天が不公平に一方に多く与え、一方に多く惜しんでいるのではないのだ。いつの時代でも必ず、君たちの知っているいわゆる通俗の英雄豪傑のほかに、やはり英雄豪傑ではあるが、君等の知る通俗の英雄豪傑に優るとも劣ることなき偉材が存しているものだ、それがいわゆる通俗の英雄豪傑のした荒ごなしを補填《ほてん》して行って、人間の仕事に、不朽の光栄を残して行くようになっているのだ。幼稚な国の教育は、ただ前の英雄豪傑だけに箔《はく》をつけ、後の使命者の真価を教えない、だからもし日本人に向って、秀吉とは誰だと聞いたら、三尺の童子だって知っている、永徳と呼びかけてみて、日本人のうちでは、最も教養のある部に属する君たちが知らない、知らないことが恥にはならない、真実情けないことではないか」
白雲が痛快に罵倒《ばとう》するのを、雲井なにがし[#「なにがし」に傍点]は耳を傾けていて、
「そりゃ、君の言うことも一面の真理はある、なにも政治をしたり、軍《いくさ》をしたりする奴だけが英雄豪傑ではなかろうけれど、他の社会の仕事は、その道の人でなければわからない、わからないから、自然、人の口頭にも上らないのだ。それは必ず英雄豪傑が存在するに相違ない、不幸にして、その人たちは、全体を見渡せるだけの地点に立っていないから、全体にも見られないのだ」
「ところが美術というものは、誰にも見えるところに置かれ、誰にも見られるように出来ていながら、それを見る人が無いのだ、たとえば……」
二十二
たとえば……と言って白雲が膝を組み直した時に、雲井なにがし[#「なにがし」に傍点]が問いかけました、
「その通り、恥かしながら、我々も美術や絵画のことにかけては盲目なのだ、それは店頭にかけた絵草紙と、応挙の描いたもの――というような格段は別だが、大家の位附けになると、どれも同じように見えて、そのエラサ加減に甲乙をつけるだけの眼識は無い。それは一つは不幸にしてそういうことを学んでいる暇が無かったのだ。そこで、端的にここで、君について学びたいのは、日本一の画家――つまり、絵の方で古今独歩の名人というは、まず誰なのだね」
それを聞いて白雲は、心得たりというような見得で、雲井なにがし[#「なにがし」に傍点]の面《おもて》をながめ、
「素人《しろうと》は、そういうことを聞きたがる。子供が、義経と清正はどっちがキツイ、と言うような程度のものだ。日本一というものは、桃太郎の旗印のように、簡単明瞭にくっつけられるわけのものではないが、美術鑑識の入門としては、さもありそうな質問で、それを軽蔑するわけにはいかないのだ。また拙者もこれで、その道で衣食する職責上としても、素人の真向から来る、そういったような子供じみた質問にも、充分に応接する用意を持たなければならぬ義務はある。今、それを君になるほどと頷《うなず》かせるだけの返答を与えてやるつもりだが、その以前に……君に聞いておきたい予備試験がある。それは極めてやさしいもので、日本人である以上は、今いう三尺の童子でも楽に及第のできる問題だ。つまり、それは、日本第一の英雄は誰だ、と尋ねれば、まず何はともあれ豊臣秀吉と答えるだろう」
「そりゃあ、議論をすれば際限がないが、そう聞かれて、左様に出て来るのは豊臣秀吉さ――秀吉が日本に於ける古今第一の英雄だということは、まあ、富士が第一の高山だというのと同じように、相場になっている」
「その通り。そこで、拙者は、もう少し深く突込んだ意味で、端的に、日本第一の画家を狩野永徳だと答えるのだ」
「先生、そりゃ……」
と口をはさんだのは小谷の主人でした。雲井なにがし[#「なにがし」に傍点]の応答には、異議をさしはさまなかった主人も、白雲の断定には、服することのできないものがあるらしく、
「先生、そりゃ、ちょっと考えものじゃありませんか。太閤秀吉の日本第一の英雄ということは許せるにしても、古永徳が日本一の画人、古今独歩の人ということは、まだ独断じゃありますまいか。巨勢《こせ》の金岡《かなおか》もあります、光長も、信実《のぶざね》もあります、土佐もあります、雪舟《せっしゅう》、周文、三|阿弥《あみ》、それから狩野家にも古法眼《こほうげん》があります、その後に於ても探幽があり、応挙があり……」
「そりゃ、もとより異論もあるだろう、永徳の日本一は、秀吉の日本一のような相場にはなっていないが、拙者は狩野永徳が日本に於て最大の画家であり、古今独歩の名人であることを信じて疑いません――まあ、お聴きなさい、拙者だって、意地でそんなことを言うわけではありません、今日まで、拙者の見たところ、測ったところを論拠として、それを言うのです。地図の測量では、下総の佐原の伊能忠敬が名人ですが、拙者といえども、自分の職とする道に於ては、かなり忠実綿密なつもりです、人間はこの通りお粗末だけれども、せめて古人を見ることの謙遜と、忠実とだけでは、人後に落ちないようにと心がけてはいます。ですから、拙者は今日まで、いやしくも名画と聞き、名人と聞けば、できるだけの手数を尽して、その絵を見せてもらい、その
前へ
次へ
全33ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング