人に親しく逢おうとしました。無論貧乏だから、買いたいと思うものも買えず、こうして乞食同様にしているから、見たいと願うものも見せてくれないものもあるが、その謙遜と、熱心とだけは、変りませんよ。陸前の松島まで永徳を見に行こうとするのも、必ずしも物好きと、酔興ばかりではありませんね――この骨のこわい頭を下げてはならぬ時と、下げねばならぬ時とは、これでも相当に心得ているつもりですよ」
二十三
白雲は傍若無人に語りつづけました、
「狩野永徳が日本一の画家です、古今独歩の名人です、本当に日本の絵というものを代表するのは、永徳のほかにありません。無いとは言えないが、あっても、それは部分的でなければ、条件つきです。ところが、永徳に限って、これが日本第一の、日本の美術の代表の画人だと、憚《はばか》りなく言うことができます」
「永徳のドノ点がエライのです、どういう理由が日本一になるのです」
「それを言うには……君たちを教育する意味に於ても、一通り日本の絵画史を頭に入れて置いてもらわなければならないが、そんなことをしている暇はないから、手っとり早く言えばですね、まず、ずっと上代では、絵画はすなわち仏画で、その仏画はみな神品といってよろしく、一とか二とか等級を附すべきものではないが、その神品たる仏画にしてからが、やっぱり支那というものの系統を、度外しては論ずることができないのです。その後大和絵というものが起りました。巨勢《こせ》とか、土佐とか、詫磨《たくま》とかいう日本の絵が出来ました。それは立派なものであるけれど、何をいうにも歴史が浅く、規模が足りません……そうしているうちに、東山時代といったようなものが来ました。いわゆる雪舟などは、まさにその完全なる代表者です、ただ、時代の代表だけではない、雪舟あたりこそ、日本一とか、古今独歩とかいうべき地位を与えても、異存のないところですが、幸か不幸か、雪舟の偉大なのは、これを宋元の大家と比較しての偉大であって、日本の画家としての代表には、偉大は余りあるとしても、特色が不足します。勿論《もちろん》、雪舟自身は支那へ渡っても、かの地に師とすべき者なし、ただ山水のみ師なりといって、空《むな》しく帰って来たくらいですから、その芸術に、国境や、系統を附すべきものではないが、その筆法の系統には、宋元の脈を引いて争うべからざるものがあるのです。そこで、よって、彼を世界の第一流とは言えるかも知れないが、日本を代表しての古今独歩とは推《お》し難い……日本を代表する以上は、そのすべてが日本化されて、そうして独自の境に立って、天下を睥睨《へいげい》するという渾成《こんせい》と、気魄《きはく》が無ければならないのです。そうして、優にそのすべてが備わっているのは、狩野永徳がただ一人です。永徳を日本第一、古今独歩と私が推称するのは、大体そんなような理由ですが、もう少し、それを分析しないと、いくら素人《しろうと》でも、君たちにわかるまいと思うから……」
ここで、また酒をとって飲みました。主人ともう一人の客は、あながち、白雲の気焔を否《いな》まずに聞いているから、白雲が続けました、
「永徳は元信の孫です。元信は御承知の通り古法眼《こほうげん》で、この人もまた、ある点では永徳以上のものを持っていました。いったい狩野家には、代々豪傑が現われたこと不思議と思われるばかりですが、古法眼を祖父として、松栄を父として生れた永徳が、生れながら、すでに名匠の血を持ち、むつきの間から丹青の中に人となり、後年大成すべき予備と、練熟とは、若冠のうちに片づけてしまったこと、我々貧乏人が中年から飛び出して、やっと絵具の溶き方がわかった時分には、もう白髪になってしまっているというような大悲惨な行き方とは、天分の恵まれ方が違っていましたね。基礎学は子供のうちに叩き込んでしまって、一意、自家の大成に全力を注ぎうるように仕組まれていた彼の境遇も、仕合せといえば言えますが、天はその実力なき者に、優越の環境を許すものではありません、時代は永徳を現わさねばならぬようになっていたから、優秀な上に、優秀な待遇を与えて世に送り出しました。実際、彼ほど偉大な日本画家はない如く、彼ほど恵まれた環境を持った画家もありませんでした――祖父に元信があり、漢画と大和絵を融合して、日本の絵の技術を総合した上に、保護者が、その天下第一の英雄である秀吉であり、その秀吉よりもいっそう天才である信長でしたからね」
二十四
「秀吉が永徳の唯一の保護者というわけではないが……永徳は信長のためにむしろ傾注していたに相違ないが、安土《あづち》の城が焼けると信長の覇業《はぎょう》が亡び、同時に永徳の傾注したものも失せました。そこで、秀吉はつまり信長の延長といってさしつかえないのですから、秀吉を仮りに保護者としておきましょう――しかし保護者といったところで、秀吉は永徳にとって、贔屓《ひいき》の旦那でもなければ、永徳は秀吉のための御用絵師でもなく、見ようによっては、秀吉はどうしても、その事業の光彩のために、永徳がなければ片輪者になるし、永徳はまた秀吉を待ってはじめて、その大手腕を発揮することができたのですから、もし仮りに永徳が秀吉の御用絵師ならば、秀吉はまた永徳のための御用建築家をつとめたとも言えるでしょう。永徳あって秀吉の土木が意味を成したので、永徳がなければ、単なる成金趣味の、粗大なる土木だけのものでした……
かように永徳は、狩野の嫡流《ちゃくりゅう》から出たのですから、漢画水墨の技巧は生れながら受けて、早くこれに熟達を加えているのに、大和絵の粋をことごとく消化している、そうしてそれを導く者が、一代の巨人秀吉であり、その秀吉以上の天才信長であったから、惜気もなくカンバスを供給して、そのやりたいだけのことをやらせ、伸ばせるだけの手腕を伸ばさせて、他に制臂《せいひ》を蒙《こうむ》るべき気兼ねというものが少しもない、『画史』によると、松と梅の十丈二十丈の物を遠慮なく金壁の上に走らせている、古来日本の画家で、永徳の如き巨腕を持ったものはあるかも知れないが、その巨腕を、縦横に駆使すべきカンバスを与えられたこと永徳の如きはあるまい。彼は文字通りの大手腕を揮《ふる》うのに、注文通りの恵まれた材料を与えられている、幸福といえば無上の幸福者です――貧弱を極めた我々貧乏絵師の夢にも及ばないこと――だが彼は本来、大作に余儀なくされて、大作を成した男ではないのですよ、『画史』にありますね、『山水人物花鳥皆細画ヲ為《な》ス、間《まま》大画有リ』というのですから、むしろ細画に堪能《たんのう》で、そうして大物をこなすのが本当の大物です。大小ということはカンバスの面積の問題ではないのですが、古来これにひっかからない画家はほとんどありますまい。骨法の皆伝を父祖に受けたけれども、自然の観照は独得です。まあ、絵の骨法も正格だが、自然を観照するの正しいこと――忠実なこと、謙遜なこと、素直なこと、『細画ヲ為ス』の『為ス』というのは、その意味にとりたいくらいです。永徳が、いかに骨法に正格に、自然に忠実であるかということは……どうも、ここで君たちに口で説明するということができない、絵を見せて、そうして会得させるよりほかはないが、たとえば、京都の知積院《ちしゃくいん》の草花の屏風《びょうぶ》を見て見給え、あの萱《かや》の幹と、野菊の葉を見て見給え、飛雲閣の柳の幹と枝のいかに悠大にして自然なるかを見て見給え、西教寺の柿と柚《ゆず》の二大君子の面影《おもかげ》に接して、襟を正さないものがあるか、三宝院の鵜《う》は一つ一つが生きていますよ。いきていると言ったって君、いきているように巧く描けているという意味じゃありませんぜ。大覚寺の松は舞っている、大安寺の藤は遊んでいる、永納の証ある『鷹』は見ましたけれど、毛利家にあるという『唐獅子《からじし》』を見る機会を得ないのが残念です。われわれが、無位無官の田舎絵師としての伝手《つて》で、見られるだけは見たが、どこから見ても永徳に隙間《すきま》はありません、大にしてよく、細にしてよく、山水がよく、花鳥がよく、人物がよく、濃絵《だみえ》がよく、淡彩がよく、点がよく、劃がよい――ことにその線の勁健《けいけん》にして、和順なる味といったら、本当の精進料理を噛《か》みしめる味で、狩野家の嫡流として鍛えこんだ腕でなければ、あの線は出来ません――この大名人が、信長と、秀吉に、自分のカンバスを作らせて、思う存分の腕を揮って後、その秀吉よりも一足先にこの世を去った。四十八歳では短命の方ですが――自己の生命を不朽に残して、形態の英雄秀吉よりも一足お先へ行ってしまったところが、痛快ではないか」
二十五
主人も、雲井なにがし[#「なにがし」に傍点]も、話の内容の興味よりは、意気に乗じて語る白雲の、豪快な気焔に興を催している。
白雲は、この機会に、もう少し叩き込んで置かねばならぬと考えたのでしょう、こんなことを言いました、
「そういうように、信長や、秀吉が、いかに土木を起して金壁をなすりつけてみたところで永徳があって、それに眼睛《がんせい》を点じなければ、それは成金趣味だけのものだ。前に言う通り、秀吉や、家康や、氏郷や、元就《もとなり》でなければ、人物が無いと思っている者たちのために、もう少し永徳の後談《ごだん》を語らなければならない。永徳の時代、友松《ゆうしょう》のあったことも記憶すべきだが、その子に山楽《さんらく》の出でたことこそ忘れてはなりませんよ。子といっても山楽は本当の子ではない、養子であったのだ、しかもその養子の氷人《なこうど》が、やっぱり天下第一の秀吉の直接の口利きであっただけに、養子ではあったが、不肖の子ではなかった。永徳を知れば当然、山楽を知らなければならぬ、永徳の絵にも、山楽の絵にも、落款《らっかん》というものは極めて少ないから、いずれをいずれと、玄人《くろうと》でも判断のつきかねることがあるが、よく見れば必ず、永徳は永徳であり、山楽は山楽でなければならないはずのものだ――永徳は早死《はやじに》をしたが、山楽は長生《ながいき》をした、およそ長生すれば恥多しということを、沁々《しみじみ》と体験したもの山楽の如きはあるまい。山楽がちょうど四十歳前後の時に不世出の英雄であり、自分を絵に導いてくれた唯一の知己恩人である秀吉に死なれて、その豪華一朝に崩れて、関東に傾くの壮大なる悲劇を、まざまざと見せられた山楽、家康がしばしば招いたけれども行かない、ついにその不興を買い、身辺の危険をまでも感じて、やむなく家康にお目にかかりに罷《まか》り出でたことは出でたが、もとより家康は秀吉ではない、英雄ではあるけれども英雄の質が違う、例の『画史』に――恩赦ヲ蒙ツテ東照大神君ヲ駿城ニ拝シテ洛陽ニ帰休ス――とあるのが笑わせる。何が恩赦だ、何が大神君を拝するのだ、家康には、永徳や、山楽は柄にない、家康という男は、惺窩《せいか》や、羅山を相手にしていればいい男なのだ。白眼に家康を見て帰った晩年の山楽が、池田新太郎少将のこしらえた京都妙心寺の塔頭《たっちゅう》天球院のために、精力を傾注しているのは面白いじゃないか。京都へおいでたら、智積院《ちしゃくいん》、大安寺、その他の永徳を見て、天球院の山楽を見ることを忘れてはなりませんよ――拙者が、これから行って見ようとする松島の観瀾亭というのは、伊達政宗が、桃山城のうちの一廓を、そのまま秀吉から貰いうけて建設したのだということで、その一棟全体が絵になっているそうだ。そのいずれにも落款は無いが、山楽ということに専《もっぱ》ら伝えられている。山楽でなければ永徳――永徳でなければ山楽――よりほかへは持って行き場がなかろうけれど、遊於舎《ゆうおしゃ》の主人なども一見して、自分は永徳と信じたい――と語った。関東には永徳なんぞは無いものと信じていた拙者が、偶然、東北の一隅にその声を聞いてはじっとしていられない。一人の画工のために、一枚の絵のために、
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