もひとつその裏を行って、この化け物を虜《とりこ》にしてやろう、人間が少し馬鹿だから、虜にするには誂《あつらえ》むきだ、いよいよ当座のよいおもちゃが出来たものだと、主膳の興が湧き上りました。
だが、主膳がこの女を、女角力の後身だと見誤っていることは前と変らない。女角力でも、女力持でも、たいした変りはないのだが、女角力と圧倒的に断定されてしまっては、女力持はやったけれども、女角力の経歴のないおせいが、躍起となって弁明せずにはいられないらしい。それにもかかわらず、主膳は、一途《いちず》に昔見た女角力のことが、その頭の中に現われて来たものだから、
「十年ばかり前だったが、女角力が流行《はや》ったものでなあ、その中でも、女と座頭《ざとう》の取組みというのはヒドかったよ」
「座頭とおっしゃるのは何ですか」
「お前が知らないなら、話して聞かせてやろう、座頭というのは、あんま[#「あんま」に傍点]のことだ、あんま[#「あんま」に傍点]上りの目の見えない男を引張り出して来て、女角力と取組ませるのだ」
といって、主膳は、今は禁止になっているが、その頃、目《ま》のあたり見た、見世物の一つとしての女角力と、座頭との取組みの光景を、話して聞かせようとする。
日本の女としては、恥かしがる裸体を見世物として提供し、それに男性の不具者としての座頭を、なぐさみものとして取組ませ、つまり、この社会の弱者二つを土俵の上にのぼせて、大格闘をさせ、それを見せて金を儲《もう》けようとするものと、それを見て、やんやと喝采《かっさい》する社会的残忍性を思い浮べて、主膳のパックリとあいた額の真中の眼が爛々《らんらん》と輝きはじめました。
「それは面白かったでしょうね」
「うむ」
主膳は、またその浅ましい見世物を、ひとごととして面白く聞こうとする、この大女の馬鹿さ加減を痛快なりとしました。
「ところで、女角力というやつには、あんまりいい女はなかったね、お前ほどの縹緻《きりょう》のやつもなかったよ。そのはずさ、いい女は角力を取らなくても食って行く道がある、どれもこれも、御面相はお話にならなかったが、おれの見たうちに、たった一人、美人と言っていいのがあった。何しろ、おたふく[#「おたふく」に傍点]でも、大道臼でも、竹の台の陳列場のように、裸体《はだか》でありさえすれば人が寄って来る女角力の中へ、美人と名のつけられる代物《しろもの》が一つ舞い下りて来たのだから、助平共が騒があな。おれは騒がなかったけれども、おれたちの仲間の不良共は騒いだよ。その別嬪《べっぴん》の女角力の名は、この家のお倉婆あと同じことに、おくら[#「おくら」に傍点]という名だったが――そのおくらが問題なんだ」
八十九
こういう話をはじめ出した時に、主膳がいよいよ興ざめたのは、この女が興にのって膝を乗出して来ることでした。
このおれの監視役兼取押え方を命ぜられて出張しているくせに、こちらの挑発にひっかかって、女角力《おんなずもう》の昔話にうつつを抜かそうとするこの女の馬鹿さ加減が、いよいよ浅ましくなりました。女角力というものの存在は、つまり自分というものの存在の侮辱だとは感じないで、一緒になって、その侮辱を享楽しようという気乗り方に、主膳はすっかり興をさましました。
興をさましたとか、浅ましく感じたということは、主膳に於て、そこで、うんざりして抛棄《ほうき》するという意味にはならない。こちらが興がさめて、浅ましく感ずれば感ずるほど、そちらが興に乗って、息をはずませて来ることの皮肉をよろこんでいる。
「ところで、おれたちの仲間の不良共が、十余人連合して、その別嬪《べっぴん》の女角力、おくらというのに注文をつけたのだ。その注文というのは……つまり、そのおくらに『娘一人に聟《むこ》八人』をやらせろということなのだ。『娘一人に聟八人』――それはお前も知っているだろう。知らない? 知らなければ話して聞かせる……」
と言って、神尾主膳は「娘一人に聟八人」の故事を話し出す前に、盃を取って、おせいの眼の前に置くと、おせいは無条件になみなみとついでやる。その無条件になみなみと注ぐ手つきを見て、神尾が勝ち誇ったような面《かお》をしてニタリとする。当然、この女は監視役と取押え方心得も忘れてしまって、神尾主膳がおもしろい話をしてくれさえすれば、いくらでも酒を注いでくれることにまで軟化しきっていることを認めたから、そこで主膳がニタリとする。さて一盃傾けて話し出したのは――
自分は仲間に加わらなかったが――と特に念を押しておいて――自分たちの友達の不良が、十名連合して、女角力の美人のおくらを目あてに「娘一人に聟八人」のお好みをつけたというのは、要するに、そのおくらという女角力の裸体だけでは物足りない、どこからどこまで見てやりたいという悪辣《あくらつ》な好奇心から、興行主の座元へいくらか掴《つか》ませ――二両やったとかいう話だ――世話人二人にいくらか鼻薬をやって渡りをつけたところが、その世話人という奴の中に、一人、かねがねこのおくらを口説《くど》いていた奴があったが、おくらがうんと言わないものだから、それを遺恨に思っていたところへ、この話だったものだから、こいつが真先に呑込んで、それからおくらにいやおうなしに「娘一人に聟八人」をやらせたものだ。
つまり、男座頭を八人集めて土俵へのぼせ、それをおくら[#「おくら」に傍点]一人に取組ませるのだ、一方はめくらだからめくらさがしだが、狭い土俵の上で八人の男、十六本の手、足ともでは三十二本でやられるのだから、いくらめくらさがしだってたまらない、ついにおくらがつかまって手取り、足取り……それは見ていられたものじゃない。
神尾がそこまで話すと、大女のおせいも、さすがに眉をくもらせて、
「かわいそうですね」
「そうなると、お前も同情してくるだろう。ところで、そういう時、お前ならどうだい、座頭の八人ぐらい何の苦もなく手玉に取るだろうな」
「そうはゆきますまい、一人と八人ではいくらなんでもね」
「は、は、は……お前でも、やっぱりやられるかい」
「わたしだって、苦しいわ」
苦しいわ、と言って、自分ながら大きな肉体に圧《お》されるような苦しさから、息をせいせいはずませている。
神尾主膳は、苦しそうなおせいの肉体を痛快らしくながめて、飲みほした盃を黙ってその前に置くと、おせいは脆《もろ》くもこれにまた、なみなみと注いでやりました。
それを飲みながら神尾主膳が、ニヤリニヤリと大女の形を見ていると、その大女が、
「そんなにわたしの身体ばかりを見ておいでになっては、溶けてしまいますよ」
「あ、本当だ、そら溶け出した、溶け出した」
九十
「は、は、は、は」
神尾主膳が、またも突然高笑いをした時に、力持のおせいが飛び上って慄《ふる》え出しました。
これは実に、怖るべき酒乱が突発して来る前兆でありましたけれど、はじめてこの人を見るおせいとしては、その主膳の怖るべき酒乱の予感から、怖れて飛び上ったのではありません。「は、は、は、は」と笑い出した途端に、主膳の三つの眼が、ギラギラと光り出して、脇息に肱《ひじ》を持たせている主膳の姿が、急に大女の自分をさえ圧迫するほどの大きさになったから、慄え上って飛び出したものです。
「あ、三ツ目入道……」
その瞬間に、そう思ったのです。よくお化け話で聞いておどかされている三ツ目入道というのがある、絵草紙でも見たが、あれだ、この人はその三ツ目入道だ、これは人間ではない、怖ろしいお化けだと感じました。
そこで、監視役も、取押え方心得も、盃も、盤もおっぽり出して、下の座敷へ逃げ下りてしまいました。
「は、は、は、は」
神尾主膳が三度目に笑ったのは、それは少し凄味が欠けて、和気が加わったようです。
つまり、前の笑い方は、怖るべき酒乱の前兆としての高笑いでしたけれど、今度のは、滑稽噴飯《こっけいふんぱん》が加わってのおかしさから来ている笑いが多分のようです。それは大女の恐怖と、狼狽ぶりが、あまりに仰山であったからでしょう。
これより先、下の座敷では、いったん出かけて行った金公が、またコソコソと立戻って来て、お倉婆あと内密話《ないしょばなし》を試みている。
その内容というのは、今日、人に誘われて、築地の異人館へ見物に行ったが、万事なかなか大がかりなものであること。ところで、その異人館の大番頭が、らしゃめん[#「らしゃめん」に傍点]の口を一つ欲しがっている。そいつをひとつ、桂庵《けいあん》をつとめて儲《もう》けようと思うんだが、なんとおっかさん、お前に一肌脱いでもらいてえというのはそこなんだよ、ということにあるらしい。
「そいつは耳よりだね」
慾に目のないお倉婆あが、耳をふくらませると、金公が続いて、一口にらしゃめん[#「らしゃめん」に傍点]というけれど、いかに西洋人の相手になることが、へたな日本人の相手になることよりも、有利な事業であるかを説いて、お倉婆あの耳をいよいよふくらませる。
だがねえ、話の口は、そのらしゃめん[#「らしゃめん」に傍点]にもなかなか先方に好みがあって、第一、芸妓や、女郎衆の、金で自由が利《き》く奴ではいけず、そうかといって、伊豆の下田の唐人お吉なんていう潮風の染《し》み過ぎたのでもいけず、お膝元の固いところでは、いくら困っても、娘をらしゃめん[#「らしゃめん」に傍点]にでも仕立ててみようというほどに開けた奴はいねえ。素人《しろうと》ともつかず、玄人《くろうと》ともつかず、娘でなく、年増でなく、下司《げす》ではいけないが、そうかといって上品ぶるのはなおいけない。こいつをうまくしおおせた日には、身に余る福の神を背負いこむのだが……なかなかその人選が容易でないと、一旦は頭を痛めたが、案ずるより生むは易《やす》いとでも言ったものか、実は、ぴったりとその注文にはまりそうな代物《しろもの》が、眼の前にあるから不思議じゃないか、下地《したじ》は好きなり御意《ぎょい》はよし、という心当りがあるから妙なもの。
ところで、今晩、ひとつこの場で、おっかあに肌ぬぎが願いたい、といって時節柄、うっかり唐人をこんなところへ連れ込むところを、当時流行の浪士マネにでも見られようものなら、尊王攘夷覚えたか! 真向上段と来るから、今晩、その毛唐さんを御数寄屋《おすきや》さんかなにかの隠れ遊びに仕立てて、このところへ連れて参りますから、万事その辺ぬかりなく――その代り話がまとまったと来た日には、相手が異人館の大番頭だ、つけ届けは、毎年毎年船で来ようというものだ……ということを、金助がお倉婆あに相談して、お倉婆あをして、
「ああいいとも、いいとも、いくらでも頼まれてあげるから、持っといで」
と大呑みに呑込ませているところへ、ドタンバタンと凄まじい音がして、天上から大女が降って来たものです。
九十一
力持のおせいを退却させてしまってから神尾主膳は、この時、そんなことはどうでもいいという気になりました。それは、むやみに眠くなったからです。
主膳は酒乱の萌《きざ》す前に、必ず一度眠くなることがある。その眠りをうまく眠らせさえすれば、酒乱が、すんなりと通過してしまうことがある。それが眠りそびれた時に、何かの引火薬でもあろうものなら、それこそ大変である。
主膳としては、近頃の酒量であった。最初からではかなりに飲んでいる。そうして今眠くなると、本来、蔭間《かげま》を呼んでみるなんぞといったことは、一時の気紛《きまぐ》れに過ぎないので、それに執心を持って来たわけでもなんでもないから、そんなことは、どうでもいいように眠くなったのです。そうして、最初の通り、脇息を横倒しにして、ゴロリと横倒しになり、心地よかりそうな眠りを眠りはじめました。
昏々《こんこん》として、どのくらいのあいだ、眠りこけたか、それはわからない。或いは、ほんのうたた寝の束《つか》の間《ま》を破られてしまったのかどうか、それも分らないが、
「御前――
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