八十五

 主膳が再び、うたた寝からさめ、
「金助――金助」
「はーい、殿様、お目覚めでござりますか」
「何だ、お前は」
「はい」
 神尾主膳は、二度目のうたた寝から覚めた朦朧《もうろう》たる眼を据えて、いま、眼前にわだかまっている代物《しろもの》を見ると、圧倒的に驚かされないわけにはゆきません。
 それは金助ではない、金公とは似ても似つかぬ一人の女、しかも、小山の揺ぎ出でたようなかっぷく[#「かっぷく」に傍点]の大女、銀杏返《いちょうがえ》しに髪を結って、縞縮緬《しまぢりめん》かなにかを着て、前掛をかけている。呆《あき》れ果てた主膳は、
「お前はここの女中か」
「はい」
「でかい女だなあ」
「はい」
「あのな、こちがさいぜん呼んだ金助というがいるだろう」
「金助さんは、ちょっと急の用事が出来ましたから、殿様のおよっている間ゆえ、御挨拶も申し上げず、ちょっと失礼いたしますから、殿様の御機嫌に障《さわ》らないように、よろしく申し上げてくれといってお出かけになりましたよ」
「うむ、金公が出て行ったのか、では、お前でもいい、酒を持て」
「お酒は、おやめあそばしませ」
「ナニ、酒を飲むな?」
と主膳は、大女の面《かお》をまじまじと見て、
「料理屋へ来て、酒を飲むなと言われたのは初めてだ」
「はい、殿様は酒乱の癖がおありになるから、お酒のお言いつけがあっても、なるべく差上げないようにと、おっかさんから言いつかっておりますえ」
「ふん、なるほど、貴様は正直者だ、言いつかった通りを、客の前で言ってしまうのは、正直者でもあり、新前《しんまい》でもあるな。いったい、いつ、どっちの方から、この店へ来た」
「はい――もとは両国にもおりましたが、近頃は田舎廻《いなかまわ》りをしておりました」
 こう言われてみると、その昔、女軽業《おんなかるわざ》の一行のうちの人気者で、甲州一蓮寺の興行から行方不明になった、力持のおせいさんという者があったことを、知る人は知っている。
 その時分には、神尾主膳も甲府にいた。主膳としても、あの女軽業を見物に行った覚えのあることは確かだが、その一座の中の看板に、現在眼の前にいる怪物が、客を呼んでいたかいなかったか、そんなことの記憶までは残ろうはずもない。この怪物の方でも、当時の見物の中に、あの時お微行《しのび》で通った彼地《かのち》のお歴々としてのこのお客様の姿形を、頭に残していようはずはないにきまっている。
 主膳は、この思いがけない大女の出現と、その大女が、酒をすすめるためでなく、禁酒の監視役として出張して来たような態度に、相当興をさまさないわけにはゆきません。
「一杯ぐらいはよかろう、ほんの一杯飲ませてくれ――相手の来るまでの退屈しのぎにな」
「少しぐらいならかまいません」
「許してもらえるかな」
「飲み過ぎて、酒乱を起しさえしなければ、差支えはございません」
「差支えないか」
 主膳は、お茶屋へ、酒飲みの請願に来たような心持で、いっそ、多少の愛嬌をさえ感じたらしく、
「さしつかえなくば、ほんの少々のところ、お下げ渡しが願いたい」
「お待ちなさい、わたしが、おっかさんに相談して、差上げていいと言われたら、差上げることにいたします」
「そうか、では、おっかさんに相談して、ほどよいところを少々、お恵み下し置かれたいものだ」
「待っておいでなさい」
 大女は、のっしのっしと出て行ったが、その後で、神尾主膳は呆《あき》れがとどまらない。
 それでも、しばらくして、酒盃をととのえて来て、主膳をもてなすだけのことはしました。
 お酌《しゃく》もすることはするが、どこまでも、自分が監視して飲ませるのだ、特にこのお客に限っては、本部からの監視命令があって、飲ませるには飲ませても、程度がある――といった申附けを、露骨に遵奉《じゅんぽう》している手つきが腹も立たないで、いよいよお愛嬌だ。

         八十六

 でも、この監視つきのお酌で、一杯、二杯と傾けているうちに、相当にいい心持になって行くのは奇妙だと思います。
 これは、へたな御機嫌取りの取持ちや、見え透いたお世辞者よりも、この大女にしてお酌と監視役とを兼ねた山出しが、時にとっての愛嬌となったためでしょう。大女のぎこちないお酌のしっぷりが、かえって興を催したものだから、神尾主膳は、いい気になって立て続けに二杯三杯と呷《あお》り、女が狼狽《ろうばい》ぶりを、いよいよおかしく、まじまじとながめて、ようやく悦に入り、
「大きいなあお前は。いったい、目方は何貫あるんだ、カンカンは」
「生れつきだから、どうも仕方がありません、痩《や》せたいと思っても、痩せられやしません、削るわけにもゆきませんからね」
「強《し》いて、痩せたり削ったりするには及ぶまいではないか、世間には肥りたがって苦心している者もある」
「商売をしている時は、肥っていてもいいが、こうして御奉公をしている時は、痩せていた方が、どのくらい楽か知れないと思いますね」
「商売――肥っていてもいい商売というのは何だ」
「楽をしていると、かえって肥りますねえ」
「うむ、苦労をすると人間は痩せる、お前なんぞは苦労が足りないのだ」
「ずいぶん、苦労もしましたけれど、なかなか痩せませんね」
「ちっと、親肉《しんにく》を切って売り出したらどうだ。いい肉だなあ、豚一の殿様へ持って行けば、物言わず一斤二十匁でお買上げになるぜ」
 神尾は、力持のおせいの肉体を、着物の外れからつくづくとながめているうちに、その眼の中に、皮肉と険悪の色が、そろそろと溢《あふ》れ出して来ました。
 通常の人は、物を見るのに二つの眼を以てするけれども、神尾主膳は三つの眼を以てするのです。ことに、弁信法師から、真中の特別な一つの眼を授けられて以来というものは、父と母とから与えられている二つの眼が、むしろそれを見まいとして避ける場合にも、その一つだけが、パッカリとあいて、最後まで、それを凝視していなければやまないようです。
 日本橋で、僧侶の生曝《いきざら》しを徹底的に見まもっていたのがこの眼でした。そして、僧侶という人間界の特別階級の為せる汚辱と、冒涜《ぼうとく》が、白昼、俗人環視の真中で曝されていることを見て、その眼が、痛快な表情を以てクルクルと躍り出したかのように、かわるがわるその曝し物を貪《むさぼ》り見て、飽くことを知りませんでした。
 これは、単にこの事にのみ限った例ではありません。すべて、その視力の及ぶ限りでは、人間というものの間に行われる、すべての汚辱と冒涜、破倫と没徳、醜悪と低劣、そういうものに向っては燃えつくような熱と、射るような力を以て、それを見のがすまいとはしています。見出したが最後、それが燃え尽すまでは、見捨てるということは不可能らしい。
 坊主の冒涜ぶりを貪看《どんかん》して、飽くことを忘れたこの眼が、その坊主が、蔭間《かげま》という人間界の変則なサード種族に似ているという偶語を聞いてから、その凝視から一時解放されると共に、今度は、その蔭間というやつを見てやらねばならぬ――という熱と力とに変化してきたのは、当然のような経路でありました。
 この眼こそは、人間というものが、極度まで汚さるるところを見たいのです。それが、底知れずに犯されて行く現場を見たいのです。
 偶然にそれを見ることができれば幸い、そうでない限りは、自分から――自分といっても、眼という器官だけのそれ自身では、自由行動の能力が無いから、とりあえず自分だけの持てる能力を極度に誘導発揚して、その心をそそのかし、そうしてこの四肢五体の主人公を動かして、退引ならぬ現状を作らせ――そうしておいて自分は一段高いところにいて、飽くまでその現状を凝視することを、むしろ必須の食物ででもあるかのように心得ているらしい。

         八十七

 その目的物を見ようとする途中の道草としての、この女化け物に、神尾が、かりそめの興味を呼び起してみると、梯子酒のように、その残忍性が募って来るのは、この男の持前です。
 パックリと口をあいた真中の眼が、力持のおせいというものが有するアブノーマルな肉体に向って、貪看《どんかん》を起しはじめたのが運の尽きでした。
「おい、お前、女角力《おんなずもう》というものを見たか」
「え、女角力でございますって」
「見たかじゃない、お前も、前生はその女角力で鳴らした仲間じゃないか」
「いいえ、角力はやりませんでしたが」
「角力はやらなかったが……その身体《からだ》で何をやっていたえ」
「何でもいいじゃございませんか、そんなことをおっしゃらずに、もう一つ召しあがれ」
「おやおや、御意見役が今度は、お取持ちになったのだな」
 主膳は、おせいがテレ隠しにすすめる酒を受けて飲み、
「女角力をやっていたのだろう。どこでやったい、神明かい、両国かい」
「女角力なんて、やりゃしませんよ」
「なあに、やらないことがあるものか、たしかにお前が、女角力の関《せき》で鳴らしているのを、両国で見たよ」
「え!」
「そうら見ろ、隠したって駄目だ、お前は両国で、後白浪《あとしらなみ》といって、関相撲を取っていたあれだろう、しらぱっくれても、こっちには種があがってるぞよ」
「それはお人違いでしょう、両国にもいるにはいましたけれど、角力なんぞ取りゃ致しません」
「隠すなよ、隠すと裸体《はだか》にして、証拠をあげて見せるぞ」
「隠しゃしませんよ」
「それじゃ、両国にいたろう、そうして女角力をとったろう、どうだ、その時のことを話して聞かせないか」
「そんなこと、お聞きになるものじゃありません」
「聞かせたって、いいじゃないか」
「そんなこと、どうだって、いいじゃありませんか、それよりは、もう一つ召上れ」
「おやおや、御意見番から再度の杯、そろそろ味が出て来た」
「殿様は、ちょいちょいこの家へいらっしゃいますか」
「昔はよく来たものだが、今日は、思いがけない出来心でな」
「子供衆をお呼びになるんだそうでございますね、近ごろ珍しいお好みだと、おっかさんが言ってましたよ」
「うむうむ」
「もう見えそうなものですねえ」
「いいよいいよ、そう急がんでもいい。ところで、お前、その女角力としてのお前の経歴を、ひとつ話してくれないか」
「いけません、わたしは女角力の仲間には入ったことはございませんよ」
「ないことがあるものか。あの女角力というやつ、あれでなかなか愛嬌ものでな、今は差止められてしまったが、以前はなかなか流行《はや》ったものだ」
「そうでございますってね」
「そうでございますってじゃない、お前なんぞは、それで鳴らしたに相違ないが、商売はやめても力はあるだろうな、力は――」
 主膳は、しつこく、おせいを追及して、その肥大なる肉体にさわると、
「殿様は、わたしを女角力とばかりきめておしまいになるが、わたしは一向、女角力のことなんか存じませんよ」
と言っておせいが、主膳の膝をしたたかつねりました。

         八十八

「あいたッ」
 主膳が、つねられて驚くと、おせいは平気なもので、
「御冗談をなさいますな、角力こそ取りませんでしたが、わたしゃこれで、今でも男の二人や三人、何でもありませんよ」
 おせいさんにしては少し舌の足りない、たんか[#「たんか」に傍点]を切ったので、いよいよ興に乗った神尾主膳は、
「そうだろうとも、男の二人や三人、振り飛ばすは何でもあるまい。どうだ、おれと角力をとっても負けまいな」
「殿様だって誰だって、やわら[#「やわら」に傍点]さえお使いにならなけりゃ、頭から押えてしまいますね。ですから、おっかさんが、もしや殿様が酒で乱暴をなさったら、かまわないから、頭からおさえてしまいなさいと言いました」
「なるほど……」
 神尾主膳が舌をまいて、なるほどそうありそうなことだと思いました。同時に、こいつ、金公と、お倉婆あに頼まれて、自分の酒の監視役に来たのみならず、まかり間違えば、このおれを取押え役まで言いつけられて来たのだなと思いました。
 よしよし、その儀ならば、こっち
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