お眼ざめあそばせ」
枕にした脇息を揺り動かされたことによって、酔眼をパッと開いて、朦朧《もうろう》として四辺《あたり》を見廻すと、夢からさめて、また一層の夢心地に誘い入れられたことは幸いでした。そうでなければ、甘睡半ばで揺り動かされた癇癪《かんしゃく》が、酒乱の持病を引きつれて、ガバと爆発したかも知れない。
「何だ、これはどうしたものだ」
あたりは、ぼうっと紅《べに》のように明るい。それに、この座敷の襖が、すっかり通して取払われ、大きな踊りの間になっている。踊りの間は勾欄《こうらん》つきで、提灯や雪洞《ぼんぼり》が華やかに点《つ》いている――
ははあ、いつのまに、伊勢古市の大楼あたりへ、持ち込まれたか知らん――という気になりました。
なお、よく眼をさまして見ると、舞台がある、花道がある。舞台の上には一人の俳優が、槍を持って立っている。
ははあ、踊るんだな、まだ充分さめきらぬ眼で、その俳優の風俗を見ると、それは絵で見た水木辰之助の槍踊りというようなものに、そっくりです。
主膳が、眼を、拭って起き直った時に、踊りがはじまる。
槍を上手に扱って、その少年俳優が鮮かに踊る。
主膳は、うっとりして、眼をすましたその途端に、三味線と、太鼓と、拍子木が入る。踊りも古風でよくわからないが、耳をすましてみると、
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槍師槍師《やりしやりし》は多けれど
名古屋山三《なごやさんざ》は一の槍
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というような、古謡がはさまれている。
「殿様、お気に召しましたか」
これはしたり、自分の席の後ろには、お倉婆あが、かいどり姿ですまし返って坐っている。
「うむ」
「お気に召しましたら、お手拍子をあそばしませ」
お倉婆あも、手拍子を打つから、主膳もそれにつれて、
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槍師槍師は多けれど
名古屋山三は一の槍
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とうたいながら、主膳も思わず手拍子を打つと、美少年は喜んで踊りながら、
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トコトンヤレ
トコヤレナ
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という。お倉婆あが、
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女かと見れば男の万之助
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とうたうと、俳優が、
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ウントコトッチャア
ヤットコナア
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と合わせて槍を振る。
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槍の権三《ごんざ》は美《よ》い男
どうでも権三は美い男
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お倉婆あが年に似合わない美声をあげる。
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しんしんとろりと美い男
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踊り子は踊りながら手招きをする。
九十二
それから主膳は、夢だか、うつつだか見当のわからない境へ誘い込まれて、そこらで再度の眠り慾が勃発して、いい心持で、むやみに眠ってしまいました。今度こそは、束《つか》の間《ま》のうたた寝を揺り動かされる心配はなく、思うように眠りを貪《むさぼ》ることができるのを喜んで、眠りこくっている。
ほとんど、どのくらいのあいだ眠ったものか、自分にも分らないが、醒《さ》めた時は、寝不足と、酔いとは、二つながら、すっかりさめ切ってしまっていました。
だが、時間の方は醒めてはいない。眠りと、酔いとが醒めた時は、たしかに夜中であることに気のついたのは、長い思案の後ではなく、寝間の状態もはっきり眼にうつると共に、近くに誰もいないのも、いない奴が悪いのではなく、程よい時間で、お暇乞いをして行ってしまったものであることはハッキリとする。酔っていない主膳は、それも無理ではないと思う。
枕許の酔ざめの水を飲んで、うまいと思い、それから手水《ちょうず》に行こうとして、ひとり立ち上った足どりも、あんまり危なげはない。
勝手知った廊下を歩んで行く。
なるほど、夜は更けている、何時《なんどき》か――おやおや鶏が啼《な》いているわい。
夜明けの近いことを知った主膳は、なんだか一種異様の里心といったようなものに動かされて、本当にはっきりした気持で、また廊下を歩いて帰りました。
たまに、こんな気紛れ遊びをすることも、頭が冴《さ》えていいものだ、幸いにして乱に落ちなかったのは、我ながら上出来というものだ。いや、我ながらではない、ここのお倉婆あの趣向が上出来というものだろう。あの婆あ、煮ても焼いても食えない奴だが、それでも、人のふところを見て取扱う呼吸は、手に入ったものだ。
酒に酔わせるよりは、踊りに酔わせて、夢心地のうちに人を抱き込むところなんぞは、伊勢古市でやっているような仕組みだが、あんなにされると、アラが知れない。
主膳は、こんなことを考えて、ニタリニタリと合点《がてん》しながら、廊下を帰って、自分の座敷へ戻ったのだが――戻ったつもりなのだが、それは三つばかり行き過ぎた隅の、間取りがよく似たほかの座敷であったことは、障子を開いて、足を踏み入れた途端に、それとさとったので狼狽《ろうばい》しました。
何が頭が冴《さ》えたのだ、何が上出来なのだ、危ない! 危ない!
と気がついたのは、たしかに遅かったのです。
「だあれ?」
中から、なまめかしい女の声がしました。
「しまった!」
主膳は、我ながら、しくじったことの念入りなのに、呆《あき》れたのが、いよいよ一方の主《ぬし》をおさまらないものにしてしまいました。
「お倉婆さん?」
なまめかしい女の声が、追いかけるように続いたものだから、
「いや、なに!」
主膳は、逃げるようにこの場を立去るよりほかに、手段のないことを知りました。
「まあ、お倉婆さんじゃないの?」
中の主は、さすがに、そのままでは済まされない気になったらしく、そわそわと着物を引寄せて起き出ようとする。
「失礼、失礼、座敷を間違えました」
主膳は、これだけの詫《わ》び言《ごと》を捨ぜりふにして、まっしぐらに自分の座敷に来て、夜具をあたまからかぶってしまったが、先方も、ここまで追っかけて来る気遣《きづか》いはない。さりとてまた、けたたましく人を呼び起して、たった今、この座敷へ怪しい者が入りましたよと、騒ぎ立てる気配《けはい》もないらしい。多分、先方は、戸惑いをしたそそっかしい客人の仕事だろうと、苦笑いをしていることだろう。こっちもホッと息をついて、我ながらの失敗に、苦笑いが出きらないでいたが、その苦笑いの底から、不意に、
「今のあの声は、あれはお絹ではないか」
勃然としてこういう偶想が起ると、けったいな雲が、むらむらと目口を覆うのを感じました。
九十三
ああ、思い返してみると、今のあの、なまめかしい声の主は、お絹ではなかったか。
どうも、お絹の声らしい。娘の声でもなく、芸妓あたりの調子でもない。甘ったるくて、妙にかさにかかるような言いぶり、こちらがあわてていたから、その場で声の吟味までは届かなかったが、今、耳の底から取り出してみると、お絹でなければ、あの声は出ないように思われて仕方がない。
だが、いくらなんだって、そんな事は有り得ることではない。あの女はあの女だけのものだが、いくらあの女だって、自分が今晩、ここに遊んでいるということを知りながら、ここに泊りに来るはずもあるまいではないか。
もしや、自分の行動をよそながら監視に来て、泊り込んだものでもあるか。それも馬鹿正直な見方だ。第一、あの女が、こちらから監視をつける必要こそあれ、おれの遊びにいちいち、眼をはなさないほど、こっちを重んじているか、いないか。
偶然――おれがここへ泊ったのが偶然なら、あの女がここへ泊り込んだのも偶然だ、偶然の鉢合せとしたら、議論にはならないが、事柄はいよいよ妙じゃないか。第一、おれの偶然の方には、偶然たるべき理由があるが、あいつには何の理由がある。
あいつは、今日、異人館を見に行ったのだ。朝から出かけたから、晩までには当然、根岸へ帰っていなければならないのだ。おれの方は、なるほど、あとから行くといっておいたことに相違ないが、そういう約束が、今まで完全に守られているか、いないかは、あいつがよく知っているはずだ。約束はしたけれど、途中から気が変って、ここへしけ[#「しけ」に傍点]こんだのに、何の不足がある。それだのに、晩までには根岸の屋敷へ帰っていなければならないはずのあいつが、ここへ泊り込んでいるとしたら、全然、理由がなりたたないじゃないか。
主膳は、ここで、むらむらと自分勝手の邪推の雲が渦になって、胸から湧き上りました。
「よし、見届けてやる、今のあの声の主が、お絹であろうはずはないけれども、もし、あいつであったらどうする。いずれにしても、こうなった上は、この眼で、篤《とく》と見定めてやる、この眼が承知しない」
というのは、今のはただ耳だけの判断に過ぎない。一方口を信ずるは、男子の為さざるところだから、この上は眼に訴えて、のっぴきさせず――という気になった時に、その二つの眼の上に、意地悪く控えている牡丹餅大《ぼたもちだい》の一つの眼が、爛々《らんらん》とかがやきました。
もう眠れない、また眠る必要もないのだが、この上は、眠らない以上に働かせねば、この眼が承知しない。
こう思うと、三つの眼が、ハジけるほどに冴《さ》え返って、胸の炎が、むらむらと燃え返って来たようです。
といって、主膳には主膳だけの自重もなければならない。このまま取って返して、あの寝間へ踏みこんで、得心のゆくまで面《かお》をあらためてやる――にしても、万一、あいつでなかったらどうだ。
あいつであったとしても、あいつが果して、どういう寝相《ねぞう》をしている。そんなことを思うと、胸がむかむかする。酔うている時の主膳なら知らぬこと、とにかく、こう頭がはっきりした時であっては、自分というものを、自分で考えてみれば、みすみすそれと分っても、このまま他の室へ乱入するということは、紳士(?)として許されないことだ、できないことだ。
「ちぇッ」
夜の明けるまで待つよりほかはない。夜が明けたら、あいつもそう朝寝もしておられまいから、なるべく早く身じまいをして、出かけるだろう。その時に透見《すきみ》をして、有無《うむ》を言わさぬことだ。
「うむ、ここでは朝風呂をたてる、おれは寝過したふりをして、あいつが風呂場へ行く頃を見計らって、篤《とく》と実否をたしかめるに、何の仔細はない」
なんにしても早く夜が明けろ――主膳は蒲団《ふとん》の中で、途方もなく悶《もだ》えている。
九十四
夜が明けて、その正体を見届けることは、極めて簡単な仕事でありました。
風呂場に近い洗面所の鏡の前で、その女をつかまえることの無雑作《むぞうさ》であったように、その正体を見現わすのも、極めて無雑作なもので、
「お絹じゃないか」
「まあ、あなた」
どちらも、その意外であったという心持は同じことで、ただ一方が怒気をふくんで難詰《なんきつ》の体《てい》なのと、一方が体裁をとりつくろうことに、あわてまいとしている心組みだけが違うらしい。
「どうしてこんなところへ来た」
「それは、あなたこそじゃありませんか」
お絹は、やり返したつもりであるが、主膳は肯《き》かない。
「おれの来るのは勝手だが、こんなところは、お前の来るところじゃない」
「ずいぶん手前勝手ねえ、わたしが来て悪いところなら、あなただって、立寄れないはずじゃありませんか」
「理窟を言うな、いったい、何しに来たのだ」
「何しに来たっていいじゃありませんか、あなたこそ、何しにおいでになりました」
「おれは、気が向いたから来たのだ、お前はこんなところへ来るはずではなかった」
「わたしだって、気が向かない限りはございません……第一、あなたこそ、あれほど約束をなさっておきながら、どうして、異人館へおいでにならなかったのですか」
「うむ、それはな、都合によって途中、気が変ったまでだ」
「途中、気が変った方は、それでよろしうございましょうが、変られた方は、みじめ[#「みじめ」に傍点]じゃ
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