の下から這い寄った面の主も、同じように吃驚《びっくり》して、
「いけねえ!」
 途端に早くも兵馬は、この者の利腕《ききうで》を取ろうとして、案外にもそれが、フワリとして手答えのないのに、ハッとしました。
 これは双方の思惑違い、勘違いでした。
 兵馬が行燈の下から見た面は、予想していたような人ではなく、全く見なれない月代《さかやき》のならずものめいた、色の生《なま》っ白《ちろ》い奴! その色の生っ白い小粋《こいき》がった方が認めたのは、やっぱり案外な若い男の侍でしたから、双方とも一時《いっとき》全く当てが外れて、度を失ったものです。
 でも、兵馬は心得て、やにわに、その曲者の利腕を取って押さえようとして、再び案外に感じたことは、それにさっぱり手ごたえのないことで、つまり、この男は、手を引込めて、兵馬の打込みを外したのではなく、その利腕が、てんで[#「てんで」に傍点]存在していないのだということを、兵馬が覚りました。
 右腕は無いのだ、それならばと、膝を立て直して抑えにかかった時、先方もさるものでした。
 さっと、ひっくり返って、これは、ワザとひっくり返ったので、そのひっくり返った途端に、行燈を蹴飛ばして真暗にし、なお二の矢に、行燈の下から素早くさらった油壺を、兵馬のあたりをめがけて投げつけると、クルリと起き直って、廊下へ飛び出してしまいました。
 勿論《もちろん》、こいつは、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵で、噂に聞いた新お代官の屋敷の、好き者のお部屋様に見参するつもりで来たのが、案外にも、宇津木兵馬の寝ているところでした。

         六十

 その素早い挙動には、さすがに兵馬も呆《あき》れるほどでした。
 こいつ、本職だ!
 直ちに刀を取って追いかけたが、庭へ逃げたということを知ると共に、自分は庭へ下りないで、道場へと進んで行きました。
 道場には黒崎君が寝ている。
 兵馬は静かに黒崎を起しました。そうして、いま、曲者が入ったことを告げ、但し単身潜入したもので、大体に於て、深いたくらみのある奴ではないから、騒がないがよろしい、強《し》いて陣屋の上下を動揺させるほどのこともあるまいから、君は起きて、屋敷の内部を警戒し給え、拙者は一廻り邸外を廻って見て来る、二人だけで検分してしまおう、騒がないがよいと言いました。
 黒崎はそれを心得て、身仕度をしました。
 兵馬は、それから小提灯をふところに入れ、戸締りをしておいて、さいぜんの曲者が乗越えた塀《へい》に近い潜り戸から、邸の外へ出てみる気になりました。
 かなりに広い、代官邸の塀の外を一廻りするだけでも、かなりの時間を要するが、内部のことは黒崎に任せて置けば心配なし、実は自分もこの機会に少し、外へ出てみたくなったのだ。
 高山へ来てからまだ、夜歩きということを兵馬はしていないのです。夜歩きが好きというわけではないが、深夜、街頭を歩くことには、京都以来、いろいろの興味を持っている。何かと得るところも甚《はなは》だ多いのです――第一、夜は静かで紛雑の気分を一掃する。それに思わぬ事件や、思わぬ人物に出会《でくわ》して、何かの意味でそれをあしらうことが、なかなか修行になるものだと心得ている。それにまた兵馬も若いから、おのずから血潮が、夜遊びということに誘導するといったようなせいもあろう。
 そこで兵馬は、今晩、ただ単に塀の外を通るのみではない、また、ただいま、取逃がした小盗をどこまでも追いつめるというのでもなく、今晩はひとつ、この機会に、少し高山の町、それとあの焼跡の辺までのしてみようではないか、という気分にそそられました。
 と言っても、高山の町は、そんなに広くないから、したがって多くの時間をとるほどのこともあるまいし、あとのところは黒崎に任せておく、黒崎はなかなか出来るから、あれが眼を醒《さ》ましていてさえくれれば、あとの留守は心配がないというものだ。
 それにまた、兵馬は、当時、宗猷寺に移っている高村卿のところへもお寄り申してくるつもりでしょう、そうなれば、夜明けになるかも知れない。
 こうして、兵馬は邸外の人となりました。
 飛騨の高山の夜の景色に、悠々とひたってみる機会を得ました。
 塀外を一廻りして、それから、右に川原町、左に上向町を見て、真直ぐに出て行くと、そこに中橋がある。
 中橋は、京の五条橋を思い出させる擬宝珠附《ぎぼうしゅつ》きの古風な立派な橋で、宮川の流れが潺湲《せんかん》として河原の中を縫うて行く、その沿岸に高山の町の火影が眠っている。
 南にはこんもりとした城山のつづきと、錦山。ここへ立つと兵馬は、どうしても「小京都」という感じをとどめることができません。

         六十一

 飛騨の高山には「小京都」の面影《おもかげ》があるということは、ちょうど、この橋が五条の橋で、三条四条を控え、この川が鴨川そっくりの情趣を湛《たた》えていないではない。この城山つづきを東山一帯に見做《みな》すことも決して無理ではない。無論、京都の規模には及ばないが、その情趣の髣髴《ほうふつ》は無いではない。それに京都は天地こそ、やはり平安の気分はあるが、時に凄《すさ》まじい渦に巻かれていることを兵馬は見ているが、ここは、本場のような血なまぐさいことはないから、こうして歩いていても、途上に人間の首がころがっていたり、壮士が抜身を持って横行して来たりするような心配はない。
 ただ、気の毒なことは、過日の火事である。不幸中にも、代官邸以西まで火は届かなかったが、宮川通りから一の町、二の町、三の町、川西の方までも目抜きのところが焼かれてしまっている――兵馬としては、この城山の方、奥深く上って、高いところから、更に深夜、むしろ夜明け間近の高山を、もう一ぺん見直そうとしたのですが、火事場見舞を先にしてやろうと、中橋を渡りきって見ると、もうやがて焼跡の区域で、そこへ至る前に、再び足をとどめたのは、例の今の高札場の、柳の木のあるところです。
 そこまで兵馬がやって来た時に――無論、この高札場が、もう、一度前に一場出ていて、それが返し幕か、廻り舞台になっていて、今度はそこへ自分が一人だけ登場せしめられているということを、兵馬は知らないのです。ですから何気なく、その場面へ登場して来て見ると、その前路のまんなかに、自分よりは先に、もう一人の役者が登場していることに驚かされました。
 高札場を中にして、自分とは半町ほどの距離を置いて、大道のまんなかに、人が一人倒れて苦しがっていることが、兵馬には直ちに気取られてしまいました。
 そこで、心得て、踏みとどまり、その道のまんなかで苦しみうめいている者の何者であるか――無論、それは人間には違いないが、人間のいかなる種類に属しているもので、いかなる理由で、今頃あんな所にああしているのか、倒れているのは、事実あの人影一つだけで、他に連類は無いのか、なんぞということの視察には、かなり兵馬は抜け目がないのです。
 幸いにこの柳の木――これは、この前の場面に、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百という役者が、充分カセに使った道具立てなのですが、ここにも兵馬のために有力な合方となってくれます。
 兵馬は、柳の蔭から透《すか》して、大道で倒れて苦しがっている者の、仔細な観察を続けようとします。だが、まず以て安心なことには、この怪しい行倒れが、斬られて横たわっているのではなく、酔倒れて、身動きもならないほどになっていることに気がついたのです。
「酔っぱらいだな」
 酔っぱらいならば、酔いのさめるまで地面に寝かして置いた方がよい。
 この地では、あんなのを、通りがかりにためし物にして、さいなんで行く奴もあるまいし、まだ当分車馬の蹄《ひづめ》にかかる心配もあるまいから、まもなく夜が明けたら、誰か処分するだろう、そのうちには酔いがさめて、自分の酔体は、自分で始末するに相違ない。
 まず安心――という気持で柳の木から出て、そうして兵馬は、ずかずかとこの酔っぱらいの前を通り過ぎようとしました。
「もし、そこへ誰か来たの、何とかして下さいよ、もう動けない、助けて下さい」
 兵馬の足音を聞いて、酔っぱらいが呼びかけたのは不思議ではないが、それは女の声でした。
 助けて下さいと言うけれども、酔っぱらいであることは間違いないから、兵馬はそう深刻には聞きません。
 本性《ほんしょう》のたがわぬ生酔い、人の来る足音を聞いて、それを見かけに、何かねだり[#「ねだり」に傍点]事をでも言おうとする横着な奴! しかもそれが女ときては言語道断だ、と思いました。

         六十二

 おそらく、醜いものの骨頂は、女の酔っぱらいです。
 微醺《びくん》を帯びた女のかんばせは、美しさを加えることがあるかも知れないが、こうグデングデンに酔っぱらってしまって、大道中へふんぞり返ってしまったのでは、醜態も醜態の極、問題にならないと、兵馬が苦々しく思いました。
 兵馬でなくても、それは苦々しく思いましょう。同時に、こんな苦々しい醜態を、たとえ深夜といえども、この大道中にさらさねばならぬ女、またさらしていられる女は、普通の女ではないということはわかりきっている。つまり、煮ても焼いても食えない莫連者《ばくれんもの》であるか、そうでなければ、その道のいわゆる玄人《くろうと》というやつが盛りつぶされて、茶屋小屋の帰りに、こんな醜態を演じ出したと見るよりほかはないのです。
 兵馬が近寄って見ると、それは醜態には醜態に相違ないけれど、醜態の主《ぬし》たるものは、醜人ではありませんでした。むしろ美し過ぎるほど美しい女で、その美しいのをこってりとあでやかにつくっている、それは芸妓《げいしゃ》だ。年も若いし、相当の売れっ妓《こ》になっている芸妓――兵馬は一時《いっとき》、それの姿に眼を奪われて、
「どうかなされたかな」
「やっと、ここまで逃げて来たんです、もう大丈夫」
「どこから?」
「清月楼から」
「清月楼というのは?」
「お前さん、飛騨の高山にいて、清月楼を知らないの?」
「知らない」
「ずいぶんボンクラね」
「うむ」
「ほら、中橋の向うに大きなお料理屋があるでしょう、あれが、清月楼といって、高山では第一等のお料理屋さんなんです」
「そうか」
「そうかじゃありません、高山にいて、清月さんを知らないようなボンクラでは、決して出世はできませんよ」
「うむ――そんなことは、どうでもいいが、お前は清月楼の芸妓なのだな」
「いいえ、清月さんの抱えではありません、これでも新前《しんまえ》の自前《じまえ》なのよ」
「なら、お前の家はどこだ、こんなところに女の身で、醜態を曝《さら》していては、自分も危ないし、家のものも心配するだろう」
「シュウタイって何でしょう、わたし、シュウタイなんていうものを曝しているか知ら、そんなものを持って来た覚えはないのよ」
「何でもよろしいから、早く家へ帰るようにしなさい」
「大きにお世話様……帰ろうと帰るまいと、こっちの勝手と言いたいがね、わたしだって酔興でこんなところに転がっているんじゃないのよ」
「これが酔興でなくて、何だ」
「いくら芸妓《げいしゃ》だって、お前さん、酔興で夜夜中《よるよなか》、こんなところに転がってる芸妓があるもんですか、これは言うに言われない切ないいりわけがあってのことよ、察して頂戴な」
「困ったな」
「全く困っちまったわ、どうすればいいんでしょう」
「いいから、早くお帰りなさい」
「どこへ帰るのです」
「家へお帰りなさい」
「家へ帰れるくらいなら、こんなところに転がっているものですか」
「では、その清月とやらへ帰ったらいいだろう」
「清月から逃げて帰ったんじゃありませんか」
「何か悪いことをしたのか」
「憚《はばか》りさま、悪いことなんぞして追い出されるようなわたしとは、わたしが違います、あのお代官の親爺《おやじ》に口説《くど》かれて、どうにもこうにもならないから、それで逃げ出して来たのを知らない?」

         六十三

「なに、お代官がど
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