うした」
「知ってるくせに、そんなことをいまさら尋ねるなんて野暮《やぼ》らしい。今晩もわたし、清月ですっかりあの助平《すけべい》のお代官に口説かれちゃった」
「…………」
「わたしを呼んで、こんなに盛りつぶしておいて、今晩こそジタバタさせないんですとさ」
「ふーむ」
「感心して聴いているわね。あなたはどなたか知らないが、おとなしい方ね。あなたのようにおとなしければなんにもないんですけれど、あのお代官ときた日には……助平で、あんぽんたんで、しつっこくて、吝嗇《けち》で、傲慢《ごうまん》で、キザで、馬鹿で、阿呆で、小汚なくて、ああ、思い出しても胸が悪くなる、ベッ、ベッ」
と唾を吐きました。
 兵馬は重ね重ね、苦々しい思いに堪えられないのです。
 もう、これだけで、委細は分っているようなものだ。問題の今の新お代官、つまり、仮りに自分が逗留《とうりゅう》しているところの主人が、この芸妓に目をつけて、ものにしようとしている。昨晩も、宵のうちから手込めにかかったが、それが思うようにゆかないからこの仕儀。
 兵馬は、新お代官に就ては、絶えずこんなような聞き苦しい噂《うわさ》や事実を、見たり、聞かせられたりする。単にそれだけによって判断すると、新お代官なるものは、箸にも棒にもかからない、悪代官の標本のように見えるけれども、兵馬自身は決して、それは敬服も、心服もしていないけれども、接して見ているうちには、そう悪いところばかりではない。野卑ではあるが、どこか大量なところがあって、相当に人を籠絡《ろうらく》する魅力愛嬌もないではない。人の蔭口は、一方をのみ聞捨てにすべきものではないということを、この辺にも経験していたのでした。
 が、只今、この場のことはありそうなことで、芸妓風情《げいしゃふぜい》に口説《くど》いてハネられて、逃げられて、その上に、助平の、あんぽんたんのとコキ下ろされれば世話はないと思いました。これでは、たとえ人物に、面白いところが有ろうとも無かろうとも、仮にも、飛騨一国の代官としては権威が立つまい、と心配させられるばかりです。
 だが、この芸妓という奴も生意気だ、代官の権威にも屈しないなら屈しないでいいが、仮りにも土地の権威の役人を、こんなふうに悪口雑言《あっこうぞうごん》するのは怪しからぬ。しかしこれも酒がさせる業《わざ》、なだめて、酔いをさましてやるほかには仕方はなかろうと思い、
「代官も悪かろうが、お前も品行がよくない」
「まあ、御親切さま、芸妓の品行を心配して下さるあなたという人は、日本一の親切者、わたし、あなたのような人が大好き、あなたとならば、一苦労も、二苦労もしてみたいわ」
といって芸妓が、いきなり兵馬の首にかじりつきました。
 その道の達者な抑え込みならば、外《はず》して外せないことはないが、このかじりつきには、むざむざと兵馬がひっかかってしまいました。
「何をするのだ」
 それでも、火の子がついたように、やっとその細い腕を振払っている。
「それでは帰るから、送って頂戴な」
「うむ」
「送って頂戴、ね、またあのお代官の助平が出て来ると、今度はわたし逃げられないから」
「よし」
「送って下さる?」
「家はいったいどこなのだ」
「少し遠いのよ」
「遠い?」
「ええ、少し遠いけれども、あなた、ほんとうに送って下さい」
「やむを得ない、行きがかり上」
「行きがかり上なんて言わないで、親身《しんみ》に送って頂戴な。でも、行先が少し遠いのよ」
「どこだか、それを言いなさい」
「信州の松本なのよ」

         六十四

 信州の松本と聞いて、兵馬が再びこの芸妓《げいしゃ》の面《かお》を見直さないわけにゆきません。
 送れと言うから、行きがかり上、送ってやらねばなるまい、広くもあらぬ高山の土地、たとえ今は焼け出されて、立退先になっているにしてからが、知れたもの――帰りがけの駄賃――にもならないが、まあこうなっては退引《のっぴき》ならないと観念したものの信州松本と聞いて呆《あき》れました。
「ね、信州の松本まで送って下さらない」
 呆れながら兵馬が、
「松本の何というところだ」
「松本の浅間のお湯ってのがあるでしょう、あそこよ。だが待って下さい、うっかり行こうものなら、その松本もあぶないことよ、網を張ってあるところへ、わざわざひっかかりに行くようなものだから、もう少し考えさせて下さいな、そうそう、では、同じ信濃ですけれども、もっと山奥の、中房の湯、あそこへ行きましょう、中房ならば、誰にもわかりっこなし」
「うむ」
「もし、その中房で見つかった時には、お江戸へ連れて行って頂戴な」
「ああ」
「どうしました」
「ああ、お前はここにいたのか」
「ここにいたとおっしゃるのは?」
「お前は松本から中房へ行って、また中房を出たはずだが……」
「その通り、違いありません」
「それが、どうしてこんなところへやって来たのだ」
「どうしてって、あなた」
「お前は、江戸へ帰りたいと言っていたはずだ」
「それが間違って、飛騨の高山へ来てしまいましたのよ、悪いおさむらいに騙《だま》されて、さんざんからかわれた揚句に、この高山へ納められてしまいました」
「その悪いおさむらいというのは、仏頂寺と、丸山だろう」
「何とおっしゃるか存じませんが、あの二人のお方が、江戸へ連れて行ってやるとおっしゃったのに騙されて、この高山へ来てしまいました」
「そんなことだろうと思ったから、急にあとを追いかけてみたのだが」
「そんなこととは、どんなこと?」
「お前は、わしがわからないな」
「まあ、どなたでいらっしゃいましたか、お見それ申しました、お面《かお》を見せて頂戴な」
 この時分には、ズブ酔いが多少|醒《さ》め加減になっていたと見え、
「ねえ、あなた、あなたの御親切は死んでも忘れませんよ、お面を見せて頂戴な」
 女の方から、もたれかかるように来たのは、相手が怖るべき助平野郎でなく、多少ともに、自分を親切に介抱してくれる人だとの意識が明瞭になったからでしょう。兵馬の首に抱きついて、自分の面をそこへ持って行って、充分に甘ったれるようにシナをしながら、トロリとした酔眼をみはって、そうして兵馬の面を見定めようとする努力を試みている。
「しっかりしろ」
「しっかりしていますとも。まあ、あなたまだお若い方なのね」
「しっかりしろ」
「頼もしいわね、おや、まだ前髪立ちなのね、お若いのもいいけれど、子供じゃつまりませんわ、早く元服して頂戴な」
「いいかげんにしろ」
 兵馬は、女の背中を一つ打ちのめすと――そんなに強くではなく――女は、
「まあ、痛いこと」
 仰々しく言ったが、この時、酔いは著しく引いたと見え、腰をまとめながら起き上り、
「まあ――失礼いたしました、ここはどこでございましょう、あなた様は見たようなお方……いつ、わたしはこんなところへ……まあ」

         六十五

 正気がついてくると、グングン回復するらしい。
 回復してくると、左様な商売人とはいえ、やっぱり、女の羞恥心《しゅうちしん》というものが一番先に目覚めてくるらしい。自分の膝や、裾《すそ》の乱れたのが急にとりつくろわれて、そうして次には、こんな醜態を演じていた自分というものに愛想をつかす。同情をもって介抱してくれた人の親切というものに、何事を措《お》いても感謝しなければならぬ、という念慮が動いてくるのも自然です。
 その自然と雁行《がんこう》して、この芸妓が、この暗いなかで気がついたのは、現に介抱してくれているこの人が、どうも以前に、面馴染《かおなじみ》のあった人、と思い出してきた瞬間、まだ前髪姿の武家出の少年であるということを知って、中房よりの道中の道連れの、親切か、無情かわからない少年のことでありました。
「もしや、あなた様は」
と言った時、兵馬がすかさず、
「どうだ、わかったか」
「わかりました」
「まあ、お前も無事でよかった」
「無事とおっしゃれば、無事には違いないかも知れませんが、こんな無事ではなんにもなりません」
「仏頂寺、丸山はあれからどうした」
「どうしたかって、それはお話になりません、あなたもお聞きにならない方がようござんしょう」
「うむ、あの両人《ふたり》のことだから」
「いいえ、あの御両人《おふたり》ばかり悪いのじゃありません、もっと悪い人があります」
「それは誰だ」
「あの時に、どなたか知りませんが、物臭太郎のお茶屋に、狸寝入りなんぞきめ込んでいらっしゃったお方がございましたね」
「うむ」
「そのお方が、もう少し親切にして下されば、わたしも、こんなところへ来て、こんな生恥《いきはじ》をさらさなくても済みましたのに」
「うむ――」
「ずいぶん、あの方はお若いくせに、薄情なお方でした」
と言いながら、女は兵馬の胸に面《かお》を伏せました。これは、最初にしたような、ふざけた心持ではなく、なんとなく痛々しいものがあるようで、兵馬も無下《むげ》に振り払う気持にはなれませんでした。
「中房を逃げて出る時、いい月夜の晩でございました、旅に慣れたそのお若い方は、ずんずん進んで行っておしまいになる、草鞋《わらじ》なんていうものを、生れてはじめて、あの時につけたばっかりのわたしというものは、取残されてしまいましたね」
「その時の事情、やむを得ないからだ」
「それは、やむを得ないには得ない場合なんでしょうけれど、あの懸命な道中で、足の弱い女だけひとり残されたら、落ちるところは大抵きまったものです――わたしは薄情な若いお方より、悪人でも、助けてくれる人に縋《すが》った方がよいと思いました、そうしなければ、わたしは生きられなかったという次第なんでしてね」
と言いながら、兵馬の胸に伏せた面を上げて、まださめきらないほろ酔いの足どり危なく、二足三足歩き出しました。
「歩けるか。では、家まで送って上げよう」
「いいえ、それには及びません、ほかの方ならばとにかく、あなたには中房の道中で、立派に捨てられたんです、これでも、まだ捨てられた人のお情けに縋って、生きようとは思いません」
 女はまた二足三足、ふらふらと歩き出す。兵馬は、それを見ていると、女は急にふり返って言う、
「ねえ、あなた」
「何だ」
「一度、わたしを招《よ》んで頂戴な、あなたのような薄情な方にも、商売だから、わたし、いくらでも招ばれて上げるわ……」
という途端に、一方に於て意外な物音が起りました。

         六十六

 それは何者とも知れないが、二人がこうして話している間、つい、後ろの高札場の石垣の蔭に、隠れていた者が一人あったのです。
 この隠れていた奴は、どうも、二人か、或いは二人のうちの一人を狙《ねら》って、危害を加えようとしていたものではなく、むしろ二人のいることを怖れて、早く事件の解決がつけばいい、その解決がついて、二人がここを立退いた後に、自分の身を処決しようがために、息をこらして、ここに潜んでいたものと見えました。
 ところが、この女の酔いの醒《さ》めることが容易ではなく、この酔いのうちの管《くだ》があんまり長いのに、介抱する若いさむらいもかなり親切に、酔いのさめるのを待ってやっている。酔いがようやく少しばかりさめかかってから、また後の痴話が相当に長い。そうして、女は、何か男に恨みのようなことを言って、そのしどろもどろの足どりで、あなたのお世話にはならない、自分ひとりで行く、なんぞと思わせぶりをしている。そんな手管《てくだ》や、思わせぶりも、御当人同士のお安くない間だけのことなら、御勝手だが、後ろに隠れて、早く自分の身の振り方をつけようと焦《あせ》っている者の身になっては、こらえられない。
 そこで、今、堪《こら》え兼ねて、石垣の後ろからけたたましい音を立てて飛び出したのは、無論、二人を威嚇するためではなく、そのまま一目散《いちもくさん》に、はばたきのけたたましい音を続けながら、二人の間を割って、あらぬ方へと逃げ出して行くのです。
 それが二人を驚かしたことは無論です。女の方の思わせぶりの所作《しょさ》も、それ
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