街道の道へ出ると、一層の速度を加えて、無二無三に走りました。
そのあとで、
「助けて――」
屑屋もまた、がんりき[#「がんりき」に傍点]と同じようにケシ飛ぼうとしたけれども、それは無理で、ドウと音がして、やがてザンブと水が鳴って、そうして助けて! という声が地の下から聞えたのは、焼跡のそばの、崩れた井戸へ落ち込んだものと見える。
がんりき[#「がんりき」に傍点]の百は無情にも、屑屋の急を救わんともせず、救うの遑《いとま》もなく、遮二無二走ること……かれこれ八町余りにして一つの物体にありついて、そこで、息をきりました。
「あっ! 何てザマだ」
そこで、自分ながら愛想が尽き果ててしまったものの如く、額から首筋の汗を拭って、そうして、星もない空を恨めしそうにながめながら、
「ザマあ見やがれ」
幾度も幾度も自分を冷笑しきれないのは、考えてみればみるほどばからしい。
がんどう[#「がんどう」に傍点]を差しつけたまではわかっているが、それからあの辻斬が、果して自分へ向いてのしかかって来たのだか、どうだか、いま考えてみると雲を掴むようだ。
ああした瞬間に、たつみ上《あが》りに覆面の者からのしかかられた力にたまらず、振りもぎってがむしゃら[#「がむしゃら」に傍点]に逃げ出したこっちのザマは、話にも、絵にも描けたものじゃねえ――
それがよ、仮りにも、がんりき[#「がんりき」に傍点]の兄い[#「兄い」に傍点]ともあるべきものが、飛騨の高山くんだりへ来て、追剥か、辻斬か、異体の知れねえのに脅《おびやか》されて、雲を霞と逃げたとあっちゃあ――第一、七兵衛兄いなんぞに聞かせようものなら、生涯の笑われ草だ。
だが、どうして、おれは、こんなに逃げなけりゃならなかったのだろう。がんどう[#「がんどう」に傍点]をつきつけりゃあ向うも驚かあ、向って来たら、こっちもがんりき[#「がんりき」に傍点]だから、一番飛騨の高山の辻斬の斬りっぷりを見てやろうじゃねえかという、いたずら心充分でやった仕事なのに――意地にも、我慢にも、ああのしかかられては逃げ足が先で、見栄も外聞もなくここまで突走らされ、こうして立ちすくんだのは、いったいどうしたというのだ。
五十七
考えてみれば夢だ、幽霊を見たんだ、お化けにおどかされて逃げたんだ、ばかばかしさこの上なし。気の毒千万なのは屑屋のおやじよ、あわてて井戸へおっこったらしいが、危ないこった。それをみすみす、手を出してやることもできねえで、命からがら、ここまで逃げのびたがんりき[#「がんりき」に傍点]の心根が、自分ながらつくづく不憫《ふびん》でたまらねえ。がんりき[#「がんりき」に傍点]の百ともあるべきものが、飛騨の高山へ来て、辻斬のお化けにおどかされたとあっては、もうこの面《つら》は東海道の風にゃ吹かせられねえ――憚《はばか》りながら、このがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、見てくんな、こうして右の片腕が一本足りねえんだぜ、向う傷なんだ。この片一方の腕に対《てえ》しても、面《かお》が合わせられねえ仕儀さ。何とかしてこの腹癒《はらい》せをしねえことには、この虫がおさまらねえ。といって、気の利《き》いたお化けはもう引込んでいる時分に、またも現場へ引返して、虚勢を張ってみたところで、間抜けの上塗りであり、抜からぬ面をして、おじいさん、井戸は深いかえ、も聞いて呆《あき》れる。
いったい、ここはドコなんだろう。お寺だな、かなり大きなお寺の門だ。なあるほど、飛騨の国は山国だけあって木口はいいな、かなりすばらしいもんだが、何という寺なんだ、名前も何もわかりゃしねえ。
さて――と、今晩、これから落着くところは、自暴《やけ》だな、自暴と二人連れで、この腹癒《はらい》せに乗込んでみてえところはさ、目抜きのところはすっかり焼けてしまっていて、どうにもならねえ。
今になって、思い出したのは、あの御用提灯と、陣笠と、打割羽織《ぶっさきばおり》の見まわりだが、あの見廻りのお上役人だか、土地の世話役だかわからねえが、おいらの眼と鼻の先で、乙なことを言って聞かしてくれたっけなあ。
その事、その事。それを今、ここんとこで思い返していると、なんだかゾクゾク虫酸《むしず》が走ってくるようだぜ。ここのお代官がなかなか好き者で、そのお妾《めかけ》さんが百姓出の娘には似合わず、また輪をかけた好き者で……旦那をいいかげんにあやなして置いちゃあ、中小姓であれ、御用人であれ、気の向いた奴には、相手かまわず据膳をするとかなんとか。そいつをお前、高山入り早々のがんりき[#「がんりき」に傍点]の鼻先で匂わせて下さるなんぞは気が知れねえ、そんなのを、今までトント忘れていたこっちも、人が好過ぎるじゃねえか。
いったい、そのお代官邸てのはドコにあるんだい。ようし、一番夜明けまでには、まだ一仕事の隙《すき》は、たっぷりあらあ、そのお代官邸てえのへ、ひとつ見参してみようじゃねえか。これから夜明けまで、その百姓上りだという手取者《てとりもの》の好き者のお部屋様んところへ推参して、そこで一ぷく、お先煙草の御馳走にあずかろうじゃねえか。
いいところへ気がついた、なあにこれだけのところだ、誰に聞かねえったって、走っているうちには代官邸らしいのにぶっつかるだろう。そのお部屋様というのが、そういうお前、話の分った女であった日にゃあ、土臭い地侍ばかり食べつけているのと違って、こっちもがんりき[#「がんりき」に傍点]の百だよ、野暮《やぼ》におびえさせて、お説教ばかり聞かしてもおられねえ、話がもてて来た日にゃ、夜が明けても帰さねえよ、てなことになってくる。せっかく、訪ねて来たがんりき[#「がんりき」に傍点]のために野《や》を清めてしまったうえは、今夜の御定宿はひとつ、そのお代官邸のお部屋様のお座敷と、こういう寸法にきめてやろうじゃねえか――
まあ、待ってくんな、せいては事を仕損ずる、それにしても咽喉《のど》が火のようだ。
井戸はねえかな、井戸は……やむことを得なけりゃあ、さきほどの、あの高札場の屑屋の這《は》い出した井戸まで引返すかね。
こうして、この門前をうろつき出したやくざ野郎は、ほどなく、代官屋敷の裏門の掘井戸のところへ姿を現わしたことを以て見ると、求むるところのものに、同時にありついたようなものです。
五十八
宇津木兵馬が、ここへ来てから、一つ気になるのは、お代官の邸の奥向のことです。
このお代官には女房は無くて、お気に入りのお妾が、一切を切って廻していることは、それでいいとしても、兵馬が気になり出したのは、このお妾がいかにも水っぽい女で、たしかにいい女というのだろう、血相のいい顔に、つやつやしい丸髷《まるまげ》を結って、出入りの者や、下々の者までそらさない愛嬌はたしかにあって、代官が寵愛《ちょうあい》するのも、のろいばかりではない、まあ、この妾にも寵愛を受けるだけの器量はあるのだ。
この奥向を切って廻して、主人をまるめて置くだけの器量のある女には相違ないが、兵馬が気になり出したのは、品行の悪い噂《うわさ》で、それも噂だけではない、兵馬の眼にも、それと合点《がてん》のできるほど、眼に余るところも見えないではないが、兵馬のわけて気になるのは、どうも自分に向ってまで、眼の使い方が解《げ》せないことがある。それが、日一日と強くなって、あの火事の騒ぎの晩なぞは――兵馬はその晩のことを思い出して、いよいよ変な気になりました。
このお部屋様が、自分に誘惑をやり出している、ということが、ハッキリわかってくると、全くイヤな心持です。
ただ、イヤな心持ではなく、二重にも三重にも、イヤな心持がするのは、自分のほかに、ここに召使われている誰彼の用人、小姓、みんなあれと同様の色目にあずかっているらしいからで、そうして、自分が新しくて珍しいものだから、特別に――という思わせぶりがたっぷりだからです。
つまりこうして、自分をおもちゃにしてみようといういたずら心なのだ。そうして、そのおもちゃになりつつ、表面は至極心服の態《てい》に見せているものが、現にこの邸の中に一人や二人はあるらしい。それでも、おたがいたちのうちに鞘当《さやあ》ても起らないし、お代官そのものもいっこう悪い顔をしないのは、お人好しで全く気がつかないのか、或いは自分が相当の食わせ者であるだけに、気がついても、見て見ないふりをしているのか。一方からいえば、それで風波を起さずに抑えているところは、どこかに、あの女の度胸だとも、器量だとも言えないことはない。
だが、度胸にしても、器量にしても、それは浅ましいものだと、兵馬には感ぜずにはおられません。そうしてその浅ましさが、今は一途《いちず》に、自分の方へ向って圧迫されて来ることを感ぜずにはおられないのです。
一日も早くこの地を立った方がよいと思っている一方に、またあのお代官の引力がなんとなく強い。あのお代官はお代官でまた極力、この自分を引留めて置きたい了見《りょうけん》が充分にある。その了見を露骨にしないで、搦手《からめて》からジリジリと待遇をもって自分を動かせないようにして手許へ引きつけて置きたいとの了見がよくわかっている。兵馬は、それをいいかげんに振りきって、出立せねばならぬと思いつつも、その待遇についほだされてしまう。なにも特別の義理はないし、人物に対しても、そう離れられないほど、尊敬も心服もしているのではないが、このお代官にある力で引きつけられて、急に腰をあげられないような気持にされているのが不思議だ。
お妾の色目と、それとは全く別なことはわかっている。なにも自分を引留めて置きたいために、しめし合わせて、色仕掛のなんのというたくらみになっていないことは確かだが、なんにしてもこの二つが、左右から、当分自分を動けないものにしているらしいことは、争えない。
兵馬は寝返りを打ちながら、こんなことを考えているうちに、廊下がミシと鳴るのを感じました。
五十九
「ああ」
そこで、兵馬は胸が燃えるような熱さを感じました。
ああ、それ、今も気にかかるその人が、今晩という今晩、ここまで忍んで来られたのだ。ああ、正直のところ、自分はこの誘惑に勝てるだろうか。
あの奥方――ではない、お部屋様、あの婦人がここへ入って来たら、どうしよう、声を出して恥をかかせるわけにもいくまい、そうかといって……
ああ、困った、絶体絶命、兵馬は、もう全身が熱くなって、ワナワナとふるえが来ているようです。
果して、ミシミシと廊下に音が続いてする、中の寝息をうかがっているものらしい、あ、障子の桟《さん》へ手をかけた。
どうしよう、この誘惑に勝てようか、勝てても勝てなくても、今は絶体絶命だ。こういう時に、兵馬はいつも堅くなってしまって、動きの取れないことがおかしいほどです。
兵馬には、来るものを取って食うだけの勇気はない。そうかといって、それを叱り誡《いまし》めて、恥をかかせて追い返すほどの非人情も、発揮ができない。
禅の心得とかなんとかいうものが、こんな時に、さっぱり役に立たないのは、かえって、なまじいにそれにひっかかるからだ――兵馬はある先賢が旅宿で、主婦から口説《くど》かれたのを平然として説得してかえしたことを思ってみたり、美人から抱きつかれて、それを枯木寒巌とかなんとか言って、このなまぐさ坊主め、と追ん出されてしまったことを考える。
突いていいのか、ひっぱり込んでいいのか、実際、禅だの、心法だのということを少し学んでいたために、かえってそれに迷う。
果して、隔ての襖《ふすま》が細目に開く。
ぜひなく兵馬は、ムックリと起き直って、蒲団《ふとん》の上に端坐しながら枕元の燈火《あかり》を掻《か》き立てました。
兵馬が燈心を掻き立てた途端のこと、その行燈《あんどん》の下から、ぬっと這《は》い寄った人の面《かお》、それとぴったり面を合わせた兵馬が、
「あ!」
と言いました。驚いたのは兵馬のみではなく、その行燈
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