い女だのう」
「さようなあ、悪いとは言えねえ。お寺の娘さんにも、お武家の娘御にも、商売人にも食い飽きた親玉が放さねえのだから、悪い容色《きりょう》の女じゃねえのう。百姓の娘にしてあれだからのう」
「百姓の娘だけに、うぶなところと、親身のところが、親玉のお気に召したというのだなあ」
「いいや、お蘭も、百姓の娘たあいうけど、てとりものじゃ、商売人にも負けねえということじゃて」
「親玉をうまくまるめ込んでいることじゃろうがのう」
「親玉ばかりじゃありゃせん、その道ではお蘭も、なかなかの好《す》き者《もの》でのう」
「はあて」
「お蘭もあれで、親玉に負けない好き者じゃでのう、お蘭の手にかかった男もたんとあるとやら、まあ、男たらしの淫婦じゃてのう」
「親玉のお手がついてからでもか」
「うむうむ、かえってそれをいいことにしてのう、今までのように土臭い若衆なんぞは、てんで相手にせず、中小姓《ちゅうこしょう》じゃの、用人じゃの、お出入りのさむらい衆じゃの、気のありそうなのは、まんべんなく手を出したり、足を出したりするそうじゃてのう」
「はて、さて、そりゃまた一騒ぎあらんことかい」
「どうれ」
「どっこい」
「もう一廻り、見て、お開きと致そうかいなあ」
「そうじゃ、そうじゃ」
「どうれ」
「どっこい」
 こう言って、彼等は、煙草の吸殻を踏み消し、御用提灯を取り上げて、背のびをしたり、欠伸《あくび》をしたりしながら立ち上る。そうして、まもなく橋を渡って、あちらへ行ってしまう。一旦、平べったくなったがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵の身体が、この時また立体的になる。
「ハクショ!」
 音が高い――自分の口をあわてて自分の左の手で抑えて、
「風邪をひいちゃった――だが聞き逃しのできねえ話をきかされちゃったぜ――畜生、どうしやがるか」
 こう言って、いまいましそうに、御用提灯のあとを見送っていました。
 こうしてみると、御用提灯の連中、言わでものことを、わざわざがんりき[#「がんりき」に傍点]のために言い聞かせに来たようなものです。

         五十四

 がんりき[#「がんりき」に傍点]の百も、この柳の木の下へ、風邪をひきに来たものでないことはわかっている。何か野郎相当の野心があるか、そうでなければ進退に窮することがあって、よんどころなくこの柳の木の下へ立寄ったものに相違ない。
「どうれ」
と、隠形《おんぎょう》の印も結びもすっかり崩して、まず最初から、飲みたくて堪らなかった水を飲もうとして、井戸の方へそろそろと歩んで行くと、その井戸側から、人が一人、ひょろひょろと這《は》い出して来たには、驚かないわけにはゆきません。以前の、御用提灯、打割羽織《ぶっさきばおり》には、さほど驚かなかったがんりき[#「がんりき」に傍点]の百が、井戸側の蔭から、ひょろひょろと這い出して来たよた[#「よた」に傍点]者に、まったく毒気を抜かれてしまいました。
 だが、幸いにして、こちらも多少の心得があるから、見咎《みとが》められるまでには至らなかったが、もう一息違って、ぶっつけに井戸へ走ってしまおうものなら、大変――このよた[#「よた」に傍点]者と鉢合せをするところであった。
 いいところで、またごまかして、今度は高札場の石垣の横に潜み直していると、井戸側から出たよた[#「よた」に傍点]者は、がんりき[#「がんりき」に傍点]ありとは全く知らないらしく、這い出して来て、前後左右を見廻し、ホッと一息ついたのは、つまりこの点に於ては御同病――いましがた、立って行った御用提灯、打割羽織の目を忍ぶために、自分が柳の木の蔭で平べったくなっていると共に、このよた[#「よた」に傍点]者は、井戸側の蔭に這いつくばって、その目を避けていたのだ。
 つまり自分の隠形は立業であるのに、このよた[#「よた」に傍点]者は寝業で一本取ったというわけなのだ。二人とも、やり過してしまってから業を崩し、ホッと息をついて、のさばり出たのは同じこと。
 がんりき[#「がんりき」に傍点]が石垣の蔭からよく見ていると、手拭を畳んで頭にのせ、丸い御膳籠《ごぜんかご》を肩に引っかけた紙屑買《かみくずか》いです。
 紙屑買いだといって無論こういう場合には油断ができないことで、なお、よく注意して見ると――がんりき[#「がんりき」に傍点]は商売柄で、夜目、遠目が利《き》く――手にがんどう[#「がんどう」に傍点]提灯《ぢょうちん》を持っているところなどは、いよいよ怪しい。
 そこで、ともかくも、こいつのあとをつけてみなければならないことだと思いました。一応、その行動を見届けてやる必要があると思いました。
 そうして、暫くそのあとをつけてみた後に、がんりき[#「がんりき」に傍点]が唖然《あぜん》として、自分をせせら笑ってしまいました。
 こいつは生え抜きの紙屑買いだ。紙屑買いというよりは、紙屑拾いの部に属すべきもので、がんりき[#「がんりき」に傍点]ほどの者が、あとをつけたりなんぞするほどの代物《しろもの》ではない――何だって気が利《き》かねえ、飛騨の高山まで来て、紙屑買いの尻を追い廻すなんぞは、七兵衛兄いの前《めえ》へてえ[#「てえ」に傍点]しても話にならねえ――というのは、こいつが焼跡へ忍んで行くから、その通りついて行って見ると、その焼跡を鉄の棒でほじくって、そこで金目になりそうなものは、雪駄《せった》の後金《あとがね》であろうとも、鎌の前金であろうとも、拾い集めて銭にかえようとする商売だけのものです。
 夜陰忍んで来たのは、万一この焼跡から、小判の一枚か、金の指輪の一つも掘っくり[#「掘っくり」に傍点]返した時の用意。その時に権利者に出て来られたり、縄張り争いが起ったりしては厄介と思うから、そこで、夜陰こっそり忍んで来ただけのものです。第一、紙屑買いとしての御膳籠の背負いっぷりからして、最初から板についている。
 大笑いだ――だが、ここまで来た上は、また柳の木の下へ引返すのも、なおさら気が利《き》かない。といって、これからわっしの行くところはドコです、とたずねるのも一層気が利かない。第一、それをたずねようにも、たずねる人はあたりになし、ようし、一番、この屑屋をからかってやれ、相手にとっては少々不足だが、時にとっての慰みだ、一番からかってやれ――かくてがんりき[#「がんりき」に傍点]はやや暫くあとをつけていたが、頃を見計らって、小声で、
「お爺《とっ》さん」
 紙屑屋の肩を後ろから叩くと、屑屋は一たまりもなくへたへたとひっくり返ってしまいました。

         五十五

「お爺さん」
と肩を叩いたら、直ぐにへたへたとひっくり返ってしまい、もう腰が抜けてしまって動けないらしいから、がんりき[#「がんりき」に傍点]は苦笑いをしながら、屑屋の耳に口を当て、
「お爺さん、驚いちゃいけねえよ、わしは怖《こわ》いもんじゃねえ、道中筋をちっとばかり寄り道があって、たった今、この飛騨の高山というところへたずねて来て見るてえと、高山は一昨日《おととい》こんな大火事で、たずねて来た人の立退先がわからねえんだ、それで途方に暮れているところへ、お前の姿を見たもんだから、呼びかけてみただけのものなんだ、そんなに怖がるがものはねえよ」
「はい」
「さあ、立ちな、立ちな。立てねえかい」
「大丈夫でございまっしゃろ」
「いいよ、いいよ、立てなけりゃ、立てるまで、そうしていなさるがいいや、わしゃ爺さんに心当りを教えてもらいさえすりゃいいんだ」
「はい」
「わしゃあね、下原宿の嘉助という者の実は……甥《おい》なんだがね」
「はい」
「餓鬼《がき》の時分から手癖が悪くって、諸所方々をほうつき廻り、めったに叔父さんといってたずねたことはねえんだが、ちっと旅先で聞き込んだことがあるから、急にかけつけて見ると、飛騨の高山がこの始末なんだ」
「はい」
「下原宿の嘉助は、どこへたちのいたか知らねえかい」
「はい……下原宿てえのは焼けやしませんでな」
「焼けねえと……じゃあ焼け残ったのか。そいつぁまあ、どっちにしても仕合せだった。爺さん、済まねえがひとつその下原宿の嘉助のところまで、わっしを案内しておくんなさらねえか」
「ええ、そりゃなんでございます、お安い御用でございますて」
「うむ、済まねえな、もう立てるかい」
「へい、もう立てまっしゃろ」
「それからねえ、お爺《とっ》さん、もう一つ頼みがあるんだがね」
「下原宿の嘉助さんていえば、たいした威勢でございますでなあ」
「もう一つ頼みというはねえ、お爺さん、その嘉助に一人娘があるんだがなあ、おいらには従妹《いとこ》に当るってわけなんだが」
「はい、はい」
「その従妹が、今、お代官のお邸《やしき》に御奉公かなんかしているということなんだが、ついでにちょっと寄って行きてえんだ、お代官邸てえのは、どっちの方なんだえ、それへもひとつ案内をしてもらいてえと思うんだが、きいちゃあくれめえか」
「はい」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の百の野郎は、たった今のききかじりをここで、もう応用してしまっている。目から鼻へ抜けたつもりで、すっかり応用を試みているが、相手の煮えきらないこと、はい、はいとは言うが、いっこう立とうともしないから、業《ごう》を煮やし、
「まだ、立てねえのかい」
「もう、大丈夫でございまっしゃろ」
「大丈夫でございまっしゃろはいいが、立てねえじゃねえか」
「はい、はい」
「ちぇッ、そら、爺さん、手をとってやるよ、威勢よく起きねえ」
と言って、がんりき[#「がんりき」に傍点]は、その手首をグッとひっぱって、いくらか包んで、屑屋の手に持たせ、ようやく起してやり、
「さあ、先へ立って案内してくんな」
 要領を得て、怖々《こわごわ》ながら、屑屋の老爺《おやじ》が立ちかけたが、またぺたりと腰を落し、ワナワナと慄《ふる》え出して、
「あっ! あっ!」
といって指さしをして、その手でがんりき[#「がんりき」に傍点]の合羽《かっぱ》の裾を激しく引く。

         五十六

「世話の焼けた老爺《おやじ》さんだ」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は、骨無し同様な、老爺の腰の抜けっぷりに愛想をつかし、こんな度胸で、火事跡荒しに来るなんて、全くふざけた老爺だと思って、蹴飛ばしてやりたくなったのを、そうもならず、ぜひなく老爺の指さした方を見ると、こんどはがんりき[#「がんりき」に傍点]がゾッと立ち尽してしまいました。
「お化け……」
 老爺は指差しをしたまま、二度目に腰を抜かして、ヘタヘタと坐り込んでしまっている。
 その指さきの示すところを見ると、ほぼ十間の彼方《かなた》の同じ焼跡の中に、すっくと立って、こっちを見ている一つの黒い人影があるのです。
「おや?」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵もギョッとして、瞳《ひとみ》を定めてそれを見る。
 さいぜんからそこで我々を見つめていた人影一つ、荒涼たる焼野原を透して、宮川の外《はず》れから白山山脈が見えようというところ、月の晩ではないのに、その輪郭が白くぼかしたように浮き上っている。
「おや……」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は、たじろぎながらその物影を篤《とく》と見直すと、覆面をして、着流しのままで、二本の刀を帯びて、じっとこちらを睨《にら》んでいる。
 こいつは辻斬だ! はあて、飛騨の高山でも、辻斬が商売になるのかな。
 ちょうど、下に置いてあった屑屋のがんどう[#「がんどう」に傍点]提灯《ぢょうちん》を、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百が手にとって、その異形《いぎょう》の者にさしつける途端、
「あっ! いけねえ」
 すさまじい音をして、がんどう[#「がんどう」に傍点]提灯が、数十間の彼方にケシ飛ぶと共に、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百も共に、数十間ケシ飛びました。
 同じケシ飛んだのではあるけれども、がんどう[#「がんどう」に傍点]の方は飛んだところへ行って留まったが、がんりき[#「がんりき」に傍点]の方は横っ飛びに飛んだまま、
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