跡で見つけたのみならず、ここへ伴って来たことの有様が、ありありと想像されます。
 途中で、一度は、どうしたら久助さんをまい[#「まい」に傍点]てしまえるか知ら――と、ひそかに苦心したお雪ちゃん自身が、今は死んだ子が生き返りでもしたように、喜んで帰って来た心もち、我儘《わがまま》といえばこの上もない我儘、自分勝手の行き止り、お雪ちゃん自身でもそれを考えてみればおかしくはないか。
 船の外には、お雪ちゃんが先に立って、久助さんが何か荷物を一背負い背負い込んで立っているのに違いありません。

         三十二

 二人が火事場の模様を話して聞かせるところによると、延焼区域は一の町、二の町、三の町、目ぬきのところをすっかり。後ろは錦山、前は橋を焼いて向う岸までも嘗《な》めたところがある、近頃での大火であったこと。御同様、焼け出されの者が多いこと。その焼け出されに不思議と着のみ着のままが多いこと。でも町内と代官の手廻りがよくて、いち早く炊出しもあるし、罹災民《りさいみん》の救助方もかなり行届いているとのこと。
 久助さんも、最初お雪ちゃんの警告を聞いて、飛び起きたが、飛び起きた時は、もう火が迫っていたので、御多分に洩《も》れず、着のみ着のままで飛び出したが、今朝になって、古着や炊出しの恩恵にあずかり、こうして背中に一荷物しょい込み、なお炊出しの握飯を竹の皮包にして、ここへ持ち込んで来たものです。
 そうして、二人で宿の主人にかけ合ってみたが、宿でもほとんど家財を持ち出さなかったくらいで、お客様の方に手が及ばなかったことを、繰返し詫言《わびごと》を言われてみると、結局、身一つだけが持ち出されたということに、あきらめをつけるよりほかはありません。
 しかし、代宿としては、今の宿が責任を以て心配してくれ、相応院というお寺を借りて、そこに泊っていただくことに交渉がついていますから、あれへお越し下さいませ、万事は、のちほどの御相談ということで、一応の解決はつけて来たのでした。
 そういうわけで、もう一晩、この屋形船の中で辛抱し、明日になれば、お寺へ引移ろうという相談になって、それから、お雪ちゃんと久助さんとが申し合わせて、さしあたっての急場の凌《しの》ぎです。そのために久助は出て行きました。お雪ちゃんは、久助の持って来た炊出しの握飯を竜之助にもすすめ、自分も食べてみて、はじめてお腹のすいていたということをさとる始末です。
 それでも、お雪ちゃんにしても、久助さんにしても、お救《すく》い米《まい》を貰いに行く気にはなれないのです。こんな非常の際とはいえ、なんだかきまりが悪くて、風呂敷や、袋をさげて、焼跡へお救い米をもらいに行く気にはなれないが、さりとて、着のみ着のままで、焼け出されの旅の身、親類が一人あるというわけではなし、明日からの当座の宿所はお寺ときまっても、それから後がまた心配です――故郷までは長い道のり、たよりをすることも、金を取寄せることも、この場合、間に合うはずがありません。
 よし、忍んで、お救い米にありついたとしてからが、それが幾日つづこう。
 路用や、貯《たくわ》えの一切を焼いてしまった上に、せめて、頭の飾りとかなんとかひとくさでも残っていれば、多少とも急場を救うの金目にならないとも限らないが、それすら無いのですから、一時はこうして人の好意につながっていても、不安が目の前についている。
 どうしても、何とか当座の凌ぎをつけておいて、久助さんを国へ立たせなければならぬ。
 久助さんを国へやるか、この地で飛脚を頼むかするよりほかはないが、飛脚では安心のなり難いこともある。ぜひ、どうしても久助さんに行ってもらわねば……先日は、かりそめに邪魔にした久助を、今は、一にも二にも恃《たの》む心になったのも勝手なものだが、その恃みきった久助さんとても、仮りに最大速度で走ってくれたところで、往復に二十日はかかるでしょう。
 その二十日の間――二十日たって帰るものならいいが、今の時節、途中で、もしものことでもあったらどうしましょう。
 この際に、お雪ちゃんが、「遠くの親類より近くの他人」という諺《ことわざ》をしみじみと思い、身に沁《し》みました。
 親類でも、実家でも、遠くにあってはなんにもならない。これは、いっそ、近くの他人……他人へすがるよりほかはあるまいけれど、こんなところで、すがるべき他人を見出すことがむずかしい。どうしたものだろう――お雪ちゃんは思案の揚句、ふと胸に浮んだのが、白骨温泉に滞在している人たち、わけて北原さんのことです。

         三十三

 白骨を出る時は、こっそりと、だしぬけに出て来てしまっているから、皆さんも気を悪くしていらっしゃるだろうが、それには、そうしなければならぬわけがある。でも、なにも皆さんのために、あとを濁して来たというわけではないから、申しわけをしさえすれば、話はわかってもらえる。
 あの冬籠《ふゆごも》りの人たちは、いずれも一風変った人たちではあったけれども、なかでも北原さんがいちばん気軽で、わたしとは気が合っていた。口は悪いけれども、全く親切気のあった人。
 あの北原さんに便りをしてみようかしら……近くの他人といえば、あの人よりほかはない。
 甲州までは大へんな道のり、白骨はほんの十里内外――久助さんに、面をかぶってひとつ白骨へ行ってもらおう、そうして北原さんに事情を打明ければ、この急場を凌《しの》ぐに最もよい知恵を貸して下さるに相違ない――そうだ、では北原さんに手紙を書きましょう。
 お雪ちゃんは、こんな気持になって、明日、お寺へ落着いたなら、真先に北原さんへ手紙を書こうと決心し、それから、
「先生、こんなことなら、あなたを白骨にお置き申した方がようござんしたねえ」
と、所在なさそうな、転寝《うたたね》の竜之助を見て、なぐさめの言葉をかけました。
「こんな世話場も、面白いものだ」
「ほんとうに、思いがけない世話場を出してしまいました、これも、あのイヤなおばさんの祟《たた》りかも知れません」
とお雪ちゃんが、なにげなく返事をして、かえって自分が変な気になりました。
 世話場は世話場でいいが、なにもイヤなおばさんの名前なんぞを、ここに引合いに出す由はないのに、口を辷《すべ》らして、自分でイヤな思いをし、人にイヤな思いをさせることを悔んでみました。
「そうかも知れないね、あのおばさんの魂魄《こんぱく》が、ついて廻っているのかも知れない」
「もう、よしましょう、あんなイヤなおばさんのこと」
「どうしたものか、昨晩、わたしはあのおばさんの夢を見た」
「もう、よしましょう」
「いまさら、そんな薄情なことを言わなくてもいいじゃないか。白骨にいた時は、お前もあんなになついたくせに、ここはあのおばさんの故郷ということだ、せめて、ここへ来たからは、あのおばさんの魂魄をとむらってやる気におなりなさい」
「でも、わたし、なんだか頭が変で、どうしてもそんな気になれません、あのおばさんのこと、思い出しても気が変になりそうです、忘れていればよかったのに」
「それが忘れられないというのも因縁《いんねん》で、どうも白骨から、あのおばさんの魂魄が、あとになり先になって、我々についてくるような気がしてならん。昨晩も……」
「もう、よして下さい、先生、わたしもほんとうは、そんな気がしてならないことがあるんですけれども、誰にも言わないでいるんです」
「ははあ、それを言ってごらんなさい」
「いやです、ほんとうにいやな先生、今まで火事で忘れていたのに」
「それを思い出すようにしたのは」
「やっぱり、わたしが言い出さなければよかったのに」
「それが、つまり、イヤなおばさんの祟《たた》りというやつかも知れぬ。実はな、昨晩も……」
「もう御免下さい、あなたから昨晩……とおっしゃられると、水をかけられたようにゾッとして、そのあとから幽霊が出そうでなりません、そうでなくても、わたしはあのおばさんについて、誰にも話せないことを見ているのですから」
「誰にも話せないというて、話さないでいるからいけない。言ってごらんなさい、イヤな思いが晴れるかも知れない。実は昨晩、寝ていると、あのおばさんが向うの川原から来て、この船をゆすぶって行ったよ」
「え!」
 お雪ちゃんが面《かお》の色を変えた時に、久助さんが帰って来ました。

         三十四

 久助さんが、なお何かと手土産《てみやげ》ようのものをブラ下げて帰って来ての話に、こんなことがありました、
「お雪ちゃん、わたしは今日、お救い小屋で、妙な人に出会いましたよ」
 妙な人だの、変な人だの、イヤなおばさんだの、だしぬけに引き出される名前が、お雪ちゃんの胸にいい印象を与えませんでした。
「誰に?」
「あのね、そら、いつぞや、上野原へ、若衆のおさむらいさんが来たでしょう。お雪ちゃんが井戸で水を汲んでいなさるところへ、疲れて来て、水を一ぱい下さいと言ったのが縁で、それから、あなたがお宅へ泊めておやりなさることになると、ホラその晩、あの強盗でございましょう、方丈様も、お前様も、残らず強盗に縛られておしまいなすったのを、ちょうど、泊り合わせなすったあの若いおさむらいさんが、すっかり退治をして下さったあの晩のこと、そうしてその強盗を追い散らし、皆さんを無事に助けて下さったけれど、あの泥棒共が、翌日火の見櫓の下で、狼に食い殺されていましたっけ……ほら、あの時の、あの若いおさむらいさんに違いないと思いました。あの方にお目にかかりましたよ」
「まあ、それはほんとうに珍しい、またよい人にお目にかかりました。先方様《さきさま》は何とおっしゃいました」
「それがね、たしかにあの方とは思いますけれども、もしやと思って、何とも申し上げないで帰って来ました」
「それは、惜しいことをしました、何とか御挨拶《ごあいさつ》を申し上げてみればよかったのに」
「御挨拶なら、いつでもできると思いましてね、実はそのおさむらいさんが、お代官所の役人様たちと一緒に、お救い米やら、救助方やらに骨を折っていらっしゃるので、ずいぶんお忙がしいようでしたから、ほんとうに御親切に、わたしを見かけて、あちらではお気がつきませんのですが、ただの焼出され人だと思って、お米を下さる、着物を下さる、この乾物《ひもの》も持って行けと、こんなに恵んで下さいました。あんまりお忙がしいようでしたから、ツイその事も申し上げませんでしたが、なあに、ああしてお代官所にいらっしゃるのだから、いつでも御挨拶はできますが、それは私が申し上げるより、お雪さんが行ってお話しになると、いちばんわかりがいいと思いました」
「ほんとうにそれは珍しい。もしあの時の旅のおさむらいさんでしたら、よいところでお目にかかったもの、明日にもわたしがお訪ね申してみましょう」
「そうなさいまし」
 お雪ちゃんは、あの夜のことを思い出しました。果して、それがあの時のさむらい、宇津木兵馬様であるやらないやらは懸念《けねん》のことだけれども、今日の場合では、他人の空似《そらに》であっても、心強い感じがする。
 明日は北原さんへ手紙を書くことのほかに、もう一つ用事が出来た。それは、そのお方をおたずねしてみることだ。本当にあの若いおさむらいさんならば、北原さんよりもいっそ手近で、打明けて相談のできる人、ほんとに他人でない気持がする――今の先、いやなおばさんの記憶で悪くした気を、この久助の報告で、お雪ちゃんがすっかり取返しました。
 こんなような、あわただしい混乱のうちに、夜になったから、この一晩を、また屋形船の中で明かすことになりました。
 昨晩は、火事をよそにして、いくらも残らない夜明けを、あんなにして明かしてしまったが、今晩はもう一人、久助さんというものが来ていて、狭い船の中が賑《にぎ》やかです。
 それでも、昨晩からの疲れが烈しいものですから、お雪ちゃんは、薄着のことも気にならず、たあいなく眠りに落ちてしまいました。久助さんもまた同様で、二人とは少し離れたところにゴロリと横になると、やはり
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