疲れがさせる鼾《いびき》の声。
ひとり、竜之助だけが眠れないものですから、そろそろと起き上りました。
三十五
立ち上った時には、竜之助は、昔、甲府城下の夜の時したように、その後は、本所の弥勒寺長屋《みろくじながや》にいた時分の夜な夜なのように、面《かお》を頭巾《ずきん》に包んでいました。
ただ、今宵は、自分の今まではおっていた羽織だけを脱いで、それをどうするかと見ると、寝息をたよりに、お雪ちゃんの体の上へ、ふわりとのせて置いて、それで自分は煙のようにこの船の中を外へ出てしまいました。
その足どり、ものごし、手に入《い》ったようなもので、人間そのものがここを脱け出したとは思われません。煙が一むら、すうっと、窓を抜けたようなあんばいに、いつしか、竜之助は屋形船の外の人となっていました。
外へ出ると、天地は、飛騨の高山の宮川の川原の中です。
川原の中を、すっくすっくと歩み行く竜之助、久しぶりで壺中《こちゅう》の天地を出て、今宵はじめて天と地のやや広きところへぬけ出したから、この辺から雲を呼んで昇天するというつもりでもないでしょうが、ほんとうに久しいこと、自由な天地を歩きませんでした。
昔は、こうして、夜な夜な、外を歩いて、血を吸わないと生きていられない気持でしたが、白骨の湯壺が、しばらくの間、この毒竜を封じ込んでいたものでしょう。それが飛騨の高山へ来て、今晩という今晩、その封が切れたようです。
黒い頭巾と、白い着物と、二本の刀が閂《かんぬき》にさされたのが、すっくすっくと川原を歩んで行き、そうして水溜りとか、蛇籠《じゃかご》とかいうようなものの障《さわ》りへ来ると、ちょっと足を踏み止めて思案の体《てい》に見えるが、まもなく、五体が魚鱗のように閃《ひらめ》いたかと見ると、いつのまにか、その障碍を越えて、あなたを、すっくすっくと歩んでいる。
およそ物体が動き出したということは、生きていることの表現であって、同時に生きようとする努力であると見ればよろしい。
生きようとする努力はすなわち、飢渇というものに余儀なくされていると見ればよろしい。人間にあってもそうです、人間が動き出した時はたいてい、飢えた時、そうでなければどこぞに空虚を感じた時のほかはないと見てもよろしい。
そこで、満足した人はたいてい沈黙する、充実したところには痕跡《こんせき》というものが無いのを例とする。
人が動いている時と、騒いでいる時は、人間がその最も弱点を暴露した時なんだが、人間はかえって、充実と沈黙を怖れないで、活動と躁狂、宣伝とカモフラージュとに恫喝《どうかつ》される。笑止!
お化けだってそうである、出て来た時はすでに、人間に未練という弱味があって来るのだから。ベルゼブルだってそうです、人間にとりつくのは、自分の腹がすいているからなのである。若い男は若い女の情けに飢えているから夜遊びをする、若い女はまたそれを待構えて、その飢えに食《は》ませたり食んだりする――ついでに言っておくが、恋というものにかぎって、食えば食うほど飢えを感ずるもので、恋の飽食ということは、結局、尻尾《しっぽ》だけを残して食い合う猫のようなものです。人はパンのみにて生くるものではない、恋も食い物である、愛も食い物である、イカサマも食い物であり、ペテンも食い物である。動物の中には、夢をさえ食い物にして生きているものがあるというではないか。
今、東経百三十七度十六分、北緯三十六度九分のところ、海抜五百六十三メートル八八のあたりを音無《おとなし》の怪物が動き出したということも、つまりは飢渇を感じ出したからです。飢渇といわなければ、空虚といってもよろしい。
つまり、その食物を求めんがため、食物で悪ければ充填物《じゅうてんぶつ》を、さがし求めんがために、ふらふらと歩き出したのだが、ここは果して甲府の城下ではない、また大江戸の市中ではない、城気の疾《と》うに失せていた飛騨の高山のことではあり、この高山も、目ぬきの大半を祝融氏《しゅくゆうし》の餌食《えじき》に与えているのだから、この怪物に余された獲物《えもの》というものは、どんなものか知ら?
三十六
有る、有る。
尾花だの、萱《かや》だのの中に、竹煮草《たけにぐさ》とか、ごまめ菊とかいったような雑草がすがれている。一口に言えば蘆葦茅草《ろいぼうそう》の中の川原の石の磊嵬《らいかい》たるところに、置き捨てられたまだ新しい白木の長い箱が一つある。
これは昨晩、お雪ちゃんをおびやかした白木の寝棺《ねかん》です。あの娘《こ》は一目見たきりで、おびえて逃げたけれども、この怪物にとっては、これもまた餌食にはなるらしい。惜しいことにこの幽霊は、足許は確かだが、眼が利《き》かないから、眼前に横たわる好下物《こうかぶつ》を、気取《けど》ったことは気取ったが、そのものの質を知ることはできないのです。
白木の寝棺を距《へだた》ること、ほぼ一間のところで、立ちどまって、うかがっているのは、その寝息を見るもののようです。
宮本|無三四《むさし》は、佐々木|巌柳《がんりゅう》を打ち倒しても、まだその生死のほどを見極めるまでは、近寄ることをしなかった。それは無三四に限ったことではない、ワナを上手に外《はず》す動物は、どんな好餌《こうじ》があっても、そうガツガツと、いちずには近寄ることをしないものです。
ここに、俄然、一つの食べ物を感得したからといって、一概に貪《むさぼ》りかかることをしないのは、武術の達人の残心のうちの一つと称すべく、知恵ある動物の陥穽《かんせい》を避ける心がけと言ってもよい。それそれ、果して、この寝棺の一端が動き出したではないか。
寝棺が動き出すということが、もう只事ではない。
こっちがその心で、じっと気合を伏せて見まもっていたものだから、先方も、もう我慢がしきれなくなって、化けの皮を現わしてしまったのだ。
死人を入れることにのみ専用するものと見せた寝棺が、生きて動き出した。こういうことがあるから、人を殺せば、血を見なければならないというのだ。敵に斬られることよりも、斬って止めを刺すことを忘れた武士の方が、うろたえ者と言われる。
果然! 寝棺の一端が動き出して、死人が物を言いました、
「御免下さいやす、つい、ほんの出来心でおましてな、悪い気でやったんじゃございませんのや、寒いもんでおますで、女房や子のやつが寒がっておますやでな」
死人がこういって物を言い出したのみならず、ペタリと、石川原の上へ、へばりついてしまって、大地に両手をついて、額《ひたい》をその間に埋めて、ベルゼブルにおわびをするのです。いやまだどっちがベルゼブルだかわからない。
竜之助は、そのお詫《わ》びの言葉を充分に聞き分けてしまいました。
「何をしているのだ」
「どうも、悪い気で致したのやおまへん、焼け出されでおましてな、女房子が寒がるもんやで……つい」
「つい、そこで何をしていたのだ」
「はい……これを一枚だけ、ちょっと、ほんの一晩のうち、お借り申したいことやと存じましてな」
訊問する者も、訊問される者も、わからない。
「では、御免下されましてな……」
ペタペタと砕けてしまった腰を立てながら、後退《あとずさ》って逃げてしまった男の形が眼に見るようです。それを逃がして追わず、そのあとで竜之助が、歩みよってそこに感得した何物かの物体を撫で廻してみると、それは動かない長い箱でした。つまり、撫でてみてはじめて長い箱の存在を知ったので、最初、立ち止ったのは、ここに白木の長い箱が存在することを怪しんで、そうして、不審とながめている間に、死人が動き出したという順序ではなかったのです。
撫でてみて、はじめて、かなりに長い箱だと感触したが、それが白木であって、手ざわりからすれば、当然寝棺と気のつくまでに、竜之助の手先に触れたのは、その寝棺の上にふわりと打ちかけてあった、一重《ひとかさ》ねの衣類でした。
竜之助は、その長い箱が白木であるか、塗物であるか、寝棺であったか、長持であったか、まだわからない。その上にのせられた一重ねの着物のみが手にさわると、
「ははあ、これを盗みに来たのだな、今の奴は、これを盗もうとしてこっちの姿に驚かされたのだ」
とわかりました。
三十七
しかし、この長方形の存在物が、人間というものの最後のぬけ殻を入れた器物の一つであったことを覚ったのは、長い後のことではありませんでした。
それをまだ地中にも葬らず、火中にも置かず、川原の真中へ抛《ほう》り出してあるのだ。生きていないというまでのことで、まだ煮ても、焼いてもないのですから、よろしかったらこのまま召上ってください、と言わぬばかり。
だが、死肉は食えまい。いかに飢えたりとも、天が特に爪牙《そうが》を授けて、生けるものの血肉を思いのままに裂けよと申し含めてある動物に向って、棺肉の冷えたのを食えよというのは、重大なる侮辱である。
カタカタと軽くゆるがしてみただけで、この動物は、ついにその中の餌食に向っては、指をさしてみることをも侮辱とするもののようです。だが、カタカタと軽くゆすってみた瞬間に、釘目を合わせておかなかったこの棺と称する人間の死肉の貯蔵所の蓋《ふた》が、二三寸あいてしまいました。
二三寸あいたところから、意地悪く、その髪の毛のほつれと、冷え固まった面《かお》の白色が、ハミ出して見えたようです。朧《おぼ》ろのような夜光で、見ようによっては、棺の内で貯蔵された死面が、笑いかけたようです。
ところが、せっかく、死肉が笑い出しても、こちらの怪物は、それに調子を合わせるだけの愛嬌《あいきょう》を持ち合わせておりませんでした。それのみならず、その笑いかけたのを、浅ましがっておっかぶせてやるだけの慈悲心も、持ち合わせていないようでした。
ですから、こうまでして、死人がわざわざ愛嬌を見せても、この怪物に対しては、全く糠《ぬか》に釘のようなもので、お化けがかえってテレきってしまうのです。
三分五厘子は吾人に教えて言う、
あるところに、一人ののら[#「のら」に傍点]息子があって、親爺《おやじ》ももてあましたが、望み通りの美しい嫁さんを貰ってやったら、ばったり放蕩《ほうとう》がやんで、嫁さんばっかりを可愛がっている。嫁さんも美しくもあり、情愛もあって、若夫婦極めて円満なのは結構至極だが、ただ一つ解《げ》せないことは、この花嫁さんが、毎夜毎夜、夜更けになると、婿さんの寝息をうかがっては、そっと抜け出して、いずれへか消え失せる、その様、ちょうど、三つ違いの兄さんの女房のするのと同じようなことをする。嫉《や》けてたまらない婿さんが、或る夜、そのあとを尾行して行って見ると、寺の墓地へ行った。あろうことか、その花嫁は墓地へ行って、新仏《にいぼとけ》の穴を発《あば》き、その中の棺の蓋《ふた》を取り、死人の冷えた肉と、骨とを取り出して、ボリボリ食っている、あまりのことに仰天して気絶したお婿さんを、その花嫁さんが呼び生かして言うことには、
「お前さんは、死人の肉を食ったわたしを怖《こわ》いと思いますか。わたしの方では、生きたお父さんの脛《すね》をかじるお前さんの方が、よっぽど怖い」
事実、死んだものや、化けたものは、そんなに怖いはずはないのです。
今し、棺の蓋をせっかく細目にあけて、そうして死肉の主《ぬし》が、お愛想に、にっこりと笑いかけたのだから、ほんとうに、こちらも調子を合わせてやればいいのに……「おやおや、おばさんかね、久しぶりだったねえ。あれから、どうしたんだえ。いったい、お前は白骨の無名沼《ななしぬま》の中へ沈められていたはずじゃないか。そんならそうで、無事におとなしく、あの沼に沈着していればいいのに、なんだってこんなところまで出て来て、因果とまたあの火にまで焼かれ損なったのだね。水にも嫌われ、火にもイヤがられ、ほんとに、お前さんというおばさんも、因果の尽きないおばさんだねえ」とでも言ってやれば、せっか
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