女は女で……と感ずると共に、男である以上は、こんな不自由な身であっても、胆の据え方というものが違うのじゃないか知ら――とお雪ちゃんは、今更のようにそんなことを感じ、一時《いっとき》、こんな気持でボンヤリしましたけれども、いつまでもボンヤリしている場合ではなし、
「では、先生、一走り行って参りますから」
と、三たび暇乞いの言葉を残して行こうとしますと、竜之助が、
「お雪ちゃん――草履《ぞうり》をはいておいでなさい」
と心づけてくれました。
「まあ」
 そんなこと、細かいことまでわかるのかしら……お雪ちゃんは、眼のあいた人と、眼のあかない人との地位が、顛倒しているのではないかと思いました。

         二十九

 そうして置いてお雪ちゃんは、再び火事場へ取って返しました。
 たいした風はなかったのですけれども、乾ききっていたところへ、消防の手が不足のせいだったのでしょう、火勢はいよいよ猛烈で、ほとんど手のつけようがない有様でした。
 橋を渡って、火が対岸へ燃えうつろうとしているのを、必死で支えるだけが消防隊のする全力の仕事のようでした。
 ですから、ほとんど火事場へは寄りつけない、のみならず、火を避けようとして、逃げ出す人波と、荷物とに押されて、空しく押し戻されるよりほかはありません。
 その逃げ迷う人波の中に、せめて久助さんの姿でも見出したいものと、河原を廻って後ろからのぞんで見ましたけれども、それらしい人を見ることができません。
 ぜひなく、また河原道を、屋形船のところまで舞い戻るよりほかに為さん様がありませんでした。
 この戻りにも、何といって一つ、獲物《えもの》らしいものを持って来ることができない悲しさ。せめて、あのお金入の一つさえ持っていたならば、この戻りに、廻り道をしてなりと何か一品――さしあたっての一夜の凌《しの》ぎになるものを買って戻れるものを、それもできない。まして借りるところも、貸すところも――手ぶらで出でて、手ぶらで帰るよりほか、何事もできない自分を、歯痒《はがゆ》いと思いました。
 けれども、今の場合では、どうしても、そうして手ぶらで帰るよりほかに道はありません。せめて手ブラでなりと無事に帰って、人を安心させ、自分も安心して、この一夜を明かしてから、万事はその後――と、そう心を決めるほかはありませんでした。
 そうして、大火の火影に照らされながら、河原道を飛んで、時には、水たまりへぐちゃりと足を入れたりなんぞして、前をながめ、後ろを顧みながら辿《たど》って行くと、草むらの中に、ひときわ白いもののあるのが眼につきました。
「おや?」
 白い、長い、箱のようなもの、遠火の光にあおられてありありとそれを見出したのは、やっぱり長い箱に相違ありません。
 長持にしては白過ぎると思いました。
 でも、それが何のために、こんなところに存在するかを想像するのは難事ではない。大事なものを持ち出して、ワザとこんな遠くへまで置きっぱなしにして行ったのは、もうげんじ[#「もうげんじ」に傍点]たわけではない。火事に顛倒して、我を忘れた狼狽の沙汰ではない。荷物を持ち出す時の目測では、もうこの辺まで持ち出せば大丈夫、と安んじていたものが、いつしか、火勢に先んぜられて混乱の渦に没してしまうことが多い。そんな途方もないところまで運ばなくてもと、物笑いになるほどの心配がかえって賢明に、安全を贏《か》ち得るということはよく経験するところです――お雪ちゃんは歩むともなく、その置きっぱなしにされた白い、長い箱の傍に寄って見ると、果して長持ではない。
「おや――」
 前のは単なる驚異でしたけれども、今度のは、恐怖を伴う叫びでした。
 何です、これは、縁起の悪い、棺《ひつぎ》ではありませんか、寝棺《ねかん》ではありませんか。おおいやだ、寝棺が捨てられてある。
 お雪ちゃんはそれを見まいとして走りました。
 あれだけの寝棺では、かなり立派なお家の葬式であろうけれど、入棺間際に火事が起って真先にあれを担《かつ》いで避難はしたが、死んだ人よりも、生きている人の難儀の方が大事である場合、ぜひなく棺はあのままにして、また火事場へ取ってかえしてしまったのだ。
 それにしても、この際、棺をここまで持って来て避難させるまでの熱心があるならば、誰か一人ぐらいは、ここに番をしてあげたらよかりそうなもの、よくよくの場合とはいえ、捨てられた仏がかわいそうじゃないか、ひとりでこんなところへおっぽり出されて、もし狼か、山犬にでも荒されるようなことがあったならば、いっそ、火事場へ置いて焼いてしまってあげた方が功徳《くどく》じゃないかしら。
 お雪ちゃんはこんなことを考えながら、眼をつぶって屋形船の近くまで走って来てしまいました。

         三十

 この屋形船の中で、竜之助とお雪ちゃんは一夜を明かしたのです。
 夜が明けると、お雪ちゃんは竜之助に断わって、再び火事場へ出て行きました。
 昨晩《ゆうべ》は、近寄れなかったが、今朝は、もう火も鎮《しず》まってみれば、行けないことはない。第一に久助さんの行方《ゆくえ》――それから自分たちの荷物の安否、それから宿屋の主人に向って善後策の交渉――そんなことを、いちいちこれから切盛りをしなくてはならないと、雄々しくも心を決めて、寝巻一着を恥かしいとも思わず――恥かしいと思っても、この際、どうすることもできないのですから、そのままで、焼跡の方へ出かけて行ってしまいました。
 船の中に、ひとり残された竜之助は、肱《ひじ》を枕に横になると、天地の狭いことを感じません。
 このごろでは、よいことに、夢ではなく眼をつぶって、息を調えて沈黙している間に、さまざまのうつつの物を見ることです。曾《かつ》て見たことのある山水や、人物が、うつつとなって、沈思閉眼の境に現われて来て、甘美なる幻像に喜ばさるるの癖がつきました。
 これは、そうするつもりがなく、白骨の閑居のうちに、おのずから養われた佳癖ということができましょう。それは曾て自分が実見したことのある山水のみならず、人がさまざまに語り聞かす物語を、自分が閉眼して、いちいち絵に描いてみることができるようになったもので、白馬ヶ岳や、槍ヶ岳や、加賀の白山や、越中の立山が、みんな実物以外の想像となって、竜之助の眼底にありありとうつってくるのです。そうしてまたお雪ちゃんの話しぶりというものが、その想像を助けるのに最もふさわしいものでありました。
 白骨の炉辺閑話でも、そこに集まる冬籠《ふゆごも》りの人たちの風采《ふうさい》を、お雪ちゃんの話によって、いちいち想像に描いてみては、それらの人と共に語るような思いもするのです。時として、イヤなおばさんだの、仏頂寺弥助の一行だのといったようなのが、苦々しい幻像を現わすこともあるが、概して、自ら描いて見る風景と、人物とは、特殊な甘美なものがあって、自己陶酔には充分なのです。
 その幻像から来る自己陶酔を楽しむことができるようになった竜之助は、性格的にどれほど恵まれたかは知れないが、時間的には、たしかに、退屈ということを忘るるの術《すべ》を授けられたようなものです。
 平湯から、こちらでは、その機会の少なかったのは、沈静から流動へと移った旅程のあわただしさでしょう。昨夜の火事の前なども、うつらうつらとその夢幻の境に引き入れられようとして、引き戻されたのではあるまいか。
 今は、しばらくその時が与えられた。空想の幻像によって、窮居の無聊《ぶりょう》を救うの術を覚えたことの応用は、この辺だと心得たものでもないでしょうが、肱に枕をすると、眼を眼中に向けて、想いを雲煙の境に飛ばしました。しかし、幻想といえども、境遇と離れては成り立たないものと見えて、竜之助の夢うつつは、昨夜来の出来事と、そうして自分にかしずいているお雪ちゃんの面影《おもかげ》の外には、出でることができませんでした。
 あれから、夜の白むまでの半夜を、この狭いところに明かし合って、眼がさめた時の、お雪ちゃんの言葉が、
「先生、お寒くはございませんでした?」
と、こういうのです。
 寒くないかと、見舞を言ったお雪ちゃんその人が、かえって寒さに顫《ふる》えている面影を、竜之助はありありと見ました。
 寝巻一着のほかに、なんにも無くて、自分を顧みるよりも先に、人の安否のために奔走したお雪ちゃんの最も好意ある狼狽《ろうばい》を、竜之助といえども充分見て取っているのでしょう。
 自分はあの際にも、できるだけの身ごしらえはして来ているから、寒くはない。寒いといっても知れたものだが、お雪ちゃんは、あれから間もなく夜明けではあったものの、その間、寝入ったようなふりをしていたが、まんじりともしなかったことを、竜之助は知っていなければならぬはず。

         三十一

 竜之助も、あの子にだけは、どう考えても悪意を持つ気にはなれないらしい。
 お雪ちゃんという子を、竜之助は、どんなように想像しているか。女というものについては、お豊である限りのほかの女は、竜之助の肉眼での女というものは無いのです。
 どのみち、女というものの運命も、他の生物の運命と同じことに殺してしまうか、殺されてしまうのが落ちだ。
 竜之助は、お雪ちゃんを可愛ゆいと思わないことはない。可愛ゆい子だと、身に沁《し》みる時に、また一方に極めて冷たいものがあって、こいつもまた、今まで、経来ったあらゆる女と同じ運命の目を見せてやる時が来るのかな――とあざ笑うこともある。
 いつのまにか、自分が愛すれば愛するほど、自分が愛せられれば愛せられるほど、そのものの運命のほどを、じっと最後まで見詰めてやりたくなる癖がある。
 生かすこと、殺すことのほかには、竜之助の天地は無いのだ。
 たとえば、現在はどうあろうとも、運命がこの二つに過ぎないことは、見え過ぎるほど見えている。愛着がしばしの戯れと思われて、彼は何人の捧ぐる好意にも、感謝というものを持つことができない。
 それでも、お雪ちゃんその人には、感謝はできないながら、悪意を持つことまではできないで、そうしておのずからその残虐なる遊戯性が、この子の前では、萌《きざ》して来ないことを不思議と言えるでしょう。
 いかなる女をも、最後は、必ず自分が手にかけて殺してしまう――こういう自覚せざるの自信に充ちている竜之助も、まだお雪ちゃんを殺そうとはしていないらしい。結局はそこへ行かねばならないことを怖れているのは、弁信法師ひとりで、お雪ちゃん自身も、一向それに気のついている様子はない。
 弁信に対しては、竜之助は、ほとんど無関心でいることのできる、これも一つの不思議な存在でありました。
 神尾主膳は、弁信の存在を、この世のなにものよりも憎み、嫌い、憤り、その名を聞いてさえも、渾身《こんしん》の憎悪に震え上り、ひとたびその声を聞き、その姿を見た時は、打ち殺し、打ちひしぎ、裂き砕いて、この世での存在はもとより、想像をさえも掻《か》き消したがるほどの関心を持っているのに、竜之助は、あのおしゃべり坊主に対しては、水の如き執着をしか持っておりません。
 甲州の月見寺で、むらむらと彼を斬りたくなり、その身代りに卒塔婆《そとば》を斬った途端に、その執着が水の如く、身内を流れ去って以来、彼の存在を、あまり気にしているということを知りません。
 そのほか、考えてみれば、自分は、自分に降りかかって来る者のほかには、不思議に執着を持たない身であることを感ぜずにはおられません。むらむらと自分の身に湧き出す、如何《いかん》ともすべからざる力に、ふと外物がひっかかった時が最後――そのほかには、自分は憎むべくして憎むべき人を知らない、殺すべくして殺すべき人を知らない。
 こんなことを、うつらうつらと考えている時に、外で声がしました、
「先生、喜んで下さい、久助さんがいましたよ、見つかりましたよ」
 さも嬉しそうな呼び声、焼跡へ出かけて行ったお雪ちゃんが帰って来たのです。
 その、たまらぬほど嬉しそうな声によって見ると、お雪ちゃんは、久助を焼
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