流動へと移った旅程のあわただしさでしょう。昨夜の火事の前なども、うつらうつらとその夢幻の境に引き入れられようとして、引き戻されたのではあるまいか。
 今は、しばらくその時が与えられた。空想の幻像によって、窮居の無聊《ぶりょう》を救うの術を覚えたことの応用は、この辺だと心得たものでもないでしょうが、肱に枕をすると、眼を眼中に向けて、想いを雲煙の境に飛ばしました。しかし、幻想といえども、境遇と離れては成り立たないものと見えて、竜之助の夢うつつは、昨夜来の出来事と、そうして自分にかしずいているお雪ちゃんの面影《おもかげ》の外には、出でることができませんでした。
 あれから、夜の白むまでの半夜を、この狭いところに明かし合って、眼がさめた時の、お雪ちゃんの言葉が、
「先生、お寒くはございませんでした?」
と、こういうのです。
 寒くないかと、見舞を言ったお雪ちゃんその人が、かえって寒さに顫《ふる》えている面影を、竜之助はありありと見ました。
 寝巻一着のほかに、なんにも無くて、自分を顧みるよりも先に、人の安否のために奔走したお雪ちゃんの最も好意ある狼狽《ろうばい》を、竜之助といえども充分見て取っ
前へ 次へ
全323ページ中97ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング