前のは単なる驚異でしたけれども、今度のは、恐怖を伴う叫びでした。
 何です、これは、縁起の悪い、棺《ひつぎ》ではありませんか、寝棺《ねかん》ではありませんか。おおいやだ、寝棺が捨てられてある。
 お雪ちゃんはそれを見まいとして走りました。
 あれだけの寝棺では、かなり立派なお家の葬式であろうけれど、入棺間際に火事が起って真先にあれを担《かつ》いで避難はしたが、死んだ人よりも、生きている人の難儀の方が大事である場合、ぜひなく棺はあのままにして、また火事場へ取ってかえしてしまったのだ。
 それにしても、この際、棺をここまで持って来て避難させるまでの熱心があるならば、誰か一人ぐらいは、ここに番をしてあげたらよかりそうなもの、よくよくの場合とはいえ、捨てられた仏がかわいそうじゃないか、ひとりでこんなところへおっぽり出されて、もし狼か、山犬にでも荒されるようなことがあったならば、いっそ、火事場へ置いて焼いてしまってあげた方が功徳《くどく》じゃないかしら。
 お雪ちゃんはこんなことを考えながら、眼をつぶって屋形船の近くまで走って来てしまいました。

         三十

 この屋形船の中
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