いるのに、竜之助は、身のまわりのもの、少なくとも大小、懐中物だけは、抜かりなく用心した上に、頭巾《ずきん》を手に取り上げています。
「さあ、降りましょう、ああ、いけません、こちらは明るい、この裏梯子から」
「ああ、先生、わたしは、もう一ぺん自分の座敷へ戻らねばなりません」
「それは危ない」
「でも……」
「命には代えられません」
 その裏梯子を下りる時には、お雪ちゃんが竜之助を導くのではなく、むしろ、竜之助がお雪ちゃんを抱えて、静かに下りて行くのを見ましたが、火は、煙は、遠慮なくその後を追いかけて、姿そのものを捲き込んでしまいました。
 こうして二人は、ほんとうに身を以て、裏梯子から、すぐ家の欄《てすり》の下の桟橋《さんばし》に立って、河原を走ることになりました。
 お雪ちゃんこそは、全く身を以て逃れ出たもので、自分が一番先に発見したという立場から、まずもって急を久助さんに告げ、その足で、二階へ、竜之助に告げに行った。その次の仕事としては、もう、どうしても自分の部屋に戻ることはできませんでした。
 部屋そのものに名残《なご》りの残るわけではないが、そこには、自分の身のまわりの一切のもの
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