でもありません。よし、まあ、やらせてみろ、下手なことをしやがったら、その分では置くまい、白雲の手並を見せてやる、それからでよい。
 若造――やってみろ、という気構えで傍らから白雲が悠然として、酒杯をふくんで見ているうちに、筆を取って、画面を見ていた右の若い武士は、ズブリと硯田《けんでん》にそれを打込んで、白雲の揮毫《きごう》の真中へ、雲煙を飛ばせてしまいました。
「あっ!」
と白雲が酒杯を落そうとしたのは、憤慨のためではありません。
 その竜蛇を走らすが如き奔放なる筆勢――或いは意気に打たれたとでもいうのでしょう。

         十九

 まず、書の巧拙や、筆法の吟味は論外として、その覇気《はき》遊逸《ゆういつ》して、筆端竜蛇を走らす体《てい》の勢いに、さすがの白雲が、すっかり気を呑まれてしまった形です。
 そうして、白眼で見ていた眼が躍《おど》り出し、危うく酒杯を取落そうとして見ていると、そんなことを眼中に置かず、さっさと、走らせた筆のあとを、文字通りに読んでみると、
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平潟湾、勿来関(平潟の湾、勿来の関)
石路索廻巌洞間(石路|索《もと》め廻《めぐ》る巌
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