雲は笑止に思うくらいです――やがて、酒杯をすすめて後、主人が改めて、
「児島先生、この勿来の関の方に、先生の御賛《ごさん》をいただきたいものでございます、いかがでございましょう、田山先生」
と網旦那の主人が言いました。
「結構ですな」
と白雲が如才なく同意を示すと、主人は手を打って人を呼び、筆墨の用意にとりかからせたが、それと聞いて、いやとも言わず、黙諾の形を示していた児島なにがし[#「なにがし」に傍点]といわれた武士は、
「いいですか、せっかくの名作を汚してもかまいませんか」
「どうぞ御遠慮なく」
と白雲が、やはり如才なく言いました。
「では、ひとつ」
用意せられた筆に墨を含ませて、白雲の描いた「勿来の関」の上の空白を睨《にら》んでいる目つきを見て、白雲が、こざかしい振舞かなと思いました。
このぐらいの年配で、たとえ旅の貧乏絵師とはいえ、いやしくも他人の描いたものへ、賛をと望まれても、一応は辞退するのが礼であろうのに、いっこう、辞退の色もなく引受けて、少しもハニかむ色なく、筆をぶっつけようとする度胸だが、盲蛇《めくらへび》だか、それを白雲は、小癪《こしゃく》な奴だという気がしない
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