ろめたいものにもする。そこで、結局、行くべきものか、帰るべきものか、白雲ほどの男が、※[#「彳+低のつくり」、第3水準1−84−31]徊《ていかい》顧望して、全く踏切《ふんぎ》りがつかない始末です。
 そこへ、峠の彼方から――峠というほどではないが、関の彼方から、うたをうたって来るものがある。その歌は、何だか知らないが、うら若い娘の声で、人の無いのを見て、ひとり興に乗ってうたう、この辺ありきたりの鄙唄《ひなうた》であるらしい。
「姉さん、おい姉さん」
 松の間から見えた、里の乙女と言いつべき若い娘。ぽちゃぽちゃした面《かお》の、手拭をかぶって背には籠《かご》を背負っていたのが、峠というほどでないにしても、上下一里はある山路の中を、いい気になって、鄙唄をうたいながら来たのを、こちらから呼び止めたのは、雲をつく田山白雲でしたから、
「え!」
 その当座、右の姉さんは、ぴったりと唄をやめて、棒立ちになり、同時にワナワナとふるえ出したもののようです。
「姉さん――」
 娘は動きません。白雲はこちらで手招きをする。
 娘は動かない。
 白雲は、なお手招きをする。
 娘はジリジリと足ずりをする。し
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