できなかったものに相違ない。
事実、この男には妻子があったのです。その妻子を故郷に預けて来ていることを、「勿来」まで来て、はじめて、思い出すのはいいが、思い出される妻子というものの身になっても辛かろう。
斯様《かよう》な人間に附属せしめられた妻子というものこそは、全く気の毒の至りです。その気の毒な運命のほどは、嘗《な》めさせられている当の妻子たちは無論のことだが、嘗めさせつつ我を忘れている当人も、他所目《よそめ》ほどには楽でもあるまい、妻子には済むまい――
自己の豪興半ばにして、白雲は、ふいとこの気分のために、心を傷《いた》めぬということはないのです。
旅に出ても、若干の収入さえありさえすれば、自分は食わなくとも、それを妻子に仕送る心がけだけは忘れなかったものだ。幸いにして、この頃中は、あの山かん[#「かん」に傍点]な女興行師につかまって、あの女のために思わぬ大金を恵まれた。それをそっくり故郷の妻子に届けてあるから、あれで当分の生活にはこと欠くまい――という安心が、一つは白雲を駆ってそれからそれと、陸奥の旅までも突進させたのですが、もう一つの動力は、まさに「狩野永徳」のさせる業
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