に充ち満ちているだけに、古来の「勿来」の文字が、大手をひろげて、なにか彼に向って、前路の暗示を与えてもいるもののようです。
「遠くも来つるものかな」
暗雲低く垂れて、呼べば答えんとするもののほかに、その感懐を訴うべき、人煙は無い。
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吹く風ならぬ白雪に
勿来の関は埋もれて
萩のうら葉もうら淋《さび》し
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白雲はこういって、微吟しながら、その豪快なる胸臆のうちに、無限の哀愁を吸引し来《きた》ることにたえないらしい。
それにしても、「勿来」の関は、王朝以前の勿来の関で、近代の勿来の関ではないはずです。
たとえ、田山白雲ほどの男でも、王朝以前の時に当って、はるばる都を出でて、東路《あずまじ》の道の果てなる常陸帯《ひたちおび》をたぐりつくして、さてこれより北は胡沙《こさ》吹くところ、瘴癘《しょうれい》の気あって人を傷《いた》ましめるが故に来る勿《なか》れの標示を見て、我ながら「遠くも来つるものかな」と傷心の感懐を洩らすのは、無理とは言えないだろうが、黒船の海を行く今日の世では、もはや「勿来」は名残《なご》りだけのものです。
江戸が天下の政
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