、三田の四国町の薩摩邸まで参れ、それが面倒ならば、手近いところの酒井の巡邏隊《じゅんらたい》に訴えて出ろ、逃げも隠れも致さぬ。我々は当時、芝三田の四国町の薩摩邸に罷在《まかりあ》る、但し、薩州の藩士ではないぞ、当分、あれに居候をしている身分の、天下の浪士じゃ。薩州では西郷吉之助と、益満休之助と、それから土佐の乾退助《いぬいたいすけ》にかけ合え」
 こういうふうなことを、声高で罵《ののし》っているのを聞いた神尾主膳が、ブルブルと身体《からだ》を慄《ふる》わして、東照宮の神前に立ち、そうして我知らず刀の柄を握りしめていることをさとりました。神尾主膳は、この時勃然として怒ったのです――何を怒ったのか、何か義憤を感じでもしたのか。
 刀の柄を握り締めて立った神尾主膳の心身が、酒乱以外のことで、こうも激動したのは、従来あまり見ないことでした。

         九十六

 久しく打絶えていた、信濃の国の白骨の温泉へ行って見ると、そこの大浴槽の一つに、たった一人で、湯あみをしている一個の小坊主を見ることができました。
「皆さん、どうして、わたしが白骨の温泉に来て、温かなお湯の中に、のんびりとこう
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