まで安らかに、湯あみをしているようになりましたか、それを御不審のお方にお話し申せば、長いことでございますが……」
 果然! これはお喋《しゃべ》り坊主の弁信でありました。
 弁信は今し、人無き浴槽の中――この浴槽は、お雪ちゃんをはじめ、北原君も、池田良斎も、その以前には、イヤなおばさんも、浅公も、その他、すべての冬籠《ふゆごも》りの客を温めたことの経歴を持つ。無論、宇津木兵馬も、仏頂寺、丸山もこれで身を温めました。
 ある時は、この浴槽の中から、天下の風雲が捲き起るような談論も飛び出したり、鬱屈たる気分で詩吟が出たり、いい心持で鼻唄が出たりしたものですが、ひとりで、特別の時間に、この浴槽をひとり占めにして、しんみりと浸っていた者は、お腹に異状があると指摘されてから後のお雪ちゃん――それと、深夜全く人定《ひとさだ》まった時分に、ひとり身を浸している盲目の剣人――それらの人に限ったものでしたが、今日は全くの新顔で、そうして、従来とは全く異例な弁信法師が、一人でこの大浴槽を占領し、抜からぬ顔で、温泉浴と洒落《しゃれ》こんでいる。
 そうでなくてさえたまらない、このお喋り坊主の長広舌が、湯の温
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