う。苟《いやしく》も祖先以来、徳川家の禄を食《は》んで、その旗下の一人として加えられて来た身であってみれば、忠義だの、崇拝だのという心が有っても無くても、ははあ、ここは「東照宮」であったな、と感じないわけにはゆかなかったのでしょう。
 家康という不世出の英雄があって、三百年の泰平があり、そのおかげで日本国の――少なくともこの江戸の繁昌があり、我々旗本の安泰と、驕慢《きょうまん》とが許されたのだ、その本尊様の霊を祀るところがここだ――
 主膳の頭巾に、知らず識《し》らず手がかかったのは、うつらうつらでもここまで来てみれば、さすがに素通りはできない――という習慣性に駆《か》られたようなものでしょう。それとも、敵に後ろを見せるのが癪だ、という反抗気分かも知れません。
「よしよし、鬼の念仏だ、久しぶりで東照権現に参詣して行っても、罰《ばち》は当るまい」
 こう思って、頭巾を外《はず》しながら東照宮の神前まで、神尾主膳が進んで行きました。
 この鋪石《しきいし》の上で、主膳はふと、さんざんに引裂かれた一つの御幣《ごへい》の落ちているのを認めました。
 その御幣も容易なものではない、重い由緒ある神
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