は、一通りに答えてのけたこの女の言い分を、そっくりそのままに承認できるか。このうえ是非を言わさぬことは、泊った座敷というのへ踏み込んで見るばかりだ。
主膳はこう考えてしまうと、あちらを向いて楊子《ようじ》を使っているお絹を、肩越しに睨まえながら、
「では、お前の座敷へ行って、おれは一服しているよ」
「いけません」
「どうして」
「わたしが面《かお》を洗うまでお待ち下さい、一緒に参りますから」
九十五
神尾主膳は、その日、根岸へ帰るとて、山下まで来ると、上野の山内を歩いてみる気になって、そこで乗物を捨てました。
乗物を捨て、頭巾《ずきん》をかぶって、山内へさまよい込んだのは、何か鬱屈《うっくつ》して堪え難いものがあるからです。その息づまるような胸苦しさを晴らそうとして、そうしてワザと、上野の山のひとり歩きでも試みるという気になったものかも知れません。
かくて、知らず識《し》らず東照宮の鳥居をくぐってしまった時に気がつくと、かぶっていた頭巾に、知らず識らず手がかかりました。
それは、殊勝な信仰心がそうさせたのではない、習慣が、本能に近くなったようなわけでしょ
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