と主膳は、大女の面《かお》をまじまじと見て、
「料理屋へ来て、酒を飲むなと言われたのは初めてだ」
「はい、殿様は酒乱の癖がおありになるから、お酒のお言いつけがあっても、なるべく差上げないようにと、おっかさんから言いつかっておりますえ」
「ふん、なるほど、貴様は正直者だ、言いつかった通りを、客の前で言ってしまうのは、正直者でもあり、新前《しんまい》でもあるな。いったい、いつ、どっちの方から、この店へ来た」
「はい――もとは両国にもおりましたが、近頃は田舎廻《いなかまわ》りをしておりました」
 こう言われてみると、その昔、女軽業《おんなかるわざ》の一行のうちの人気者で、甲州一蓮寺の興行から行方不明になった、力持のおせいさんという者があったことを、知る人は知っている。
 その時分には、神尾主膳も甲府にいた。主膳としても、あの女軽業を見物に行った覚えのあることは確かだが、その一座の中の看板に、現在眼の前にいる怪物が、客を呼んでいたかいなかったか、そんなことの記憶までは残ろうはずもない。この怪物の方でも、当時の見物の中に、あの時お微行《しのび》で通った彼地《かのち》のお歴々としてのこのお客様の
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