一度《ひとたび》ここに至ると、酔わない時でも、酒乱の時と同様に、食い入る無念さに、心身が悩乱し狂います。
事実は、弁信から暴力をもって、そうされたわけでもなんでもない。弁信もまた、彼に見せしめの入墨を与えてやろうとて、そうしたわけではなし、かえって神尾の暴虐の手から遁《のが》れようとする途端に、無心のハネ釣瓶《つるべ》があって、主膳の額から、あれだけの肉を剥ぎ取って行ったもので、無論、主膳自身の暴虐が、そういうハズミを食わせるように出来ていた。
それこそ、当然の刑罰が、ハネ釣瓶の手を借りて、痛快に行われたものに過ぎないから、怨《うら》むべくば、井戸の釣瓶を怨まねばならないはずなのに、主膳は、その事なく、弁信を極度まで憎み、あの時完全にあのお喋り坊主の息の根をとめてしまうまで見届けなかったことを、親の仇を取り残したほどに、残念に思う。
今も、乗物の中で、それを思い出した主膳は、もう矢も楯もたまりません。
「駕籠屋《かごや》、もういいから、根岸へ戻せ、築地へ行くのは止めだ、根岸へ戻せ、戻せ」
主膳のこう言った言葉と出逢頭《であいがしら》に、外では駕籠屋が、
「旦那様、曝《さら》しが
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