、特にお絹という女にとっては、その粕こそが珍重物である。
 お絹は、その七兵衛の稼ぎための粕によって、当座の自分たちの生活に潤いがついたことによって、はしゃぎ出し、今日も主膳に向って、こんなことを言いました、
「あなた、築地《つきじ》へ異人館が出来たそうですから、見に行きましょうよ」
「うむ……」
「たいしたものですってね、あの異人館の上へ登ると、江戸中はみんな眼の下に見えて、諸大名のお邸なんぞは、みんな平べったくなって、地面へ這《は》っているようにしか見えないんですって」
「うむ……毛唐《けとう》めは、なかなか大仕事をやりやがる」
「異人は、何でもすることが大きいのね」
「うむ……あいつらの船を見ただけでもわかる、いまいましい奴等だ」
「そうしてまた、いちばん高いところへ登ると、上総、房州から、富士でも、足柄でも、目通りに見えるんですとさ」
「話ほどでもあるまいがな」
「話より大したものですとさ、本館が鉄砲洲河岸《てっぽうずがし》へいっぱいにひろがって、五階とか六階とかになっているその上に、素敵な見晴し台があるんだそうですから」
「うむ」
「それに、その見晴し台には、舶来の正銘に千里
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