、潜《くぐ》り戸《ど》をガラリとあけて外を見たけれども、外はやっぱり暗い。
いつもならば、この暗い中から、のそりとムク犬が尾を振って出るのだが、今晩はそれも無い。
「郁……」
と与八が咽《むせ》び上って、悄々《しおしお》と道場の真中へ戻って来たが、また飛び上って廊下伝いに、今度は母屋《おもや》へ向けて一目散に走りました。
「郁坊やあーい」
道場よりは幾倍も広い母屋は、幾倍も淋《さび》しい。
母屋のうちを一通り廻って見た与八は、また道場のところへ戻って来て、
「郁……」
でも、何か、外に未練が残るようで、耳を傾けました。
与八は物に動じない男、或いは動ずるほどの感覚を持っていない男ですが、今晩は特別に、何かの幻覚を感じているらしい。
咽《むせ》びながら静かにしていると、どうやら遠音《とおね》におさな児の泣く音がする。遠音とはいえ、思いきって近くも聞える。遠くなり近くなって、おさな児の泣く声。
それが気になって、与八は、居ても立ってもいられない様子です。
たまりかねた与八は、ついに草履《ぞうり》をひっかけて、表の方へ走り出しました。
よし、何のゆかりもない近所隣りの悪太郎
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