与八は、道場のまんなかで、涎掛《よだれかけ》をかけつつ、坐りこんで無性に泣いていました。
今晩は、全く静かです。
静かなはずです、先代の主人、自分の生命《いのち》の親たる弾正先生は疾《と》うに世を去り、まさに当代の主人であるべき竜之助殿は、天涯地角、いずれのところにいるか、但しは九泉幽冥の巷《ちまた》にさまようているか、それはわからない――最近になって復興して、竹刀《しない》の声に換ゆるに読書の声を以てした道場の賑わいも、明日からは聞えないのです。そうして、お松さんも、郁坊も、登様も、乳母も、あの人間以上と言ってもよい豪犬も、みんな行ってしまったから、今晩というものが、いつもの晩よりも、全く静かなのはあたりまえです。
こんな静かなところで、誰もいないのに、あの図抜けて大きな男が、ちっぽけな涎掛の紐のつぎ足しをして、それを首筋にかけ、大きく坐り込んで、ホロホロ泣き続けているのだから、人が見たら笑いものですけれども、今晩は笑う人さえいない。
幾時かの後、与八は急に飛び上りました。
「郁坊やあーい」
立って、道場の武者窓から外をのぞいて見たが、外は暗い。
「郁坊やあーい」
今度は
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