ッと抱きあげてしまいました。
「いや、いや、与八さんと一緒でなければ、どこへも行かない」
 抱かれた七兵衛に武者ぶりついて、ついに、七兵衛の面《かお》を平手でピシャピシャと打ちながら、泣き叫ぶ体《てい》は、全く今までに見ないことでした。
「では、与八さんのところへ連れて行ってやろう、さあ、こっちへこう戻るのだね」
 七兵衛が、如才なく後戻りをしてみせる、とその瞬間だけは郁太郎が納得しました。
 そうして、物の二三間も歩いて、もうこの辺と、引返そうとすれば、郁太郎は、火のつくようにあがいて、
「いやだ、いやだ――与八さんの方へ……」
 なだめても、すかしても、手段の利《き》かないことを七兵衛もさとり、一行の者が全くもてあましてしまいました。
「与八さんに送って来てもらえばよかったのにねえ」
 お松でさえも愚痴をこぼすよりほかはないと見た七兵衛は、
「この子は、与八さんという若い衆が本当に好きなのだから、この子の心持通りにしてやるのがようござんしょう」
 むずかる郁太郎を抱きながら、七兵衛は何かひとり思案を定めたようです。

         七十六

 沢井の道場に、ひとり踏みとどまった
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