の泣く声であっても、この物すさまじい静けさには堪えられないから、それで、当てはなくとも、泣く子の声でも聞いてみたくなったのでしょう。
 ずっと、石段を下りて、街道筋まで走《は》せ出してみたが、また空《むな》しく道場へ立戻ってみると、道場の中で子供の泣く声がします。与八は自分の耳を疑いました。
 道場の戸を外から押開いて見ると、提灯《ちょうちん》をつけ放しにして置いた道場の中のぼんやりした光線の間に、一人の子供がいる。
「郁……郁坊」
「与八さん」
「郁坊か」
「与八さん」
「郁……」
「与八さん」
「郁……」
「与八さん」
「お前、戻って来たのカイ」
「おじさんが……おじさんが連れて来てくれた」
「そのおじさんというのは?」
「知らないおじさんがここまで連れて来てくれて、すぐ帰ってしまったよ」
「そうか」
 与八は確実に、郁太郎を抱き上げてしまいました。

         七十七

 その翌日は、門を閉し、広い屋敷のうちに人のいる気配《けはい》もなく、訪い来る人もありません。
 万事は昨日で終り、あとへ残った与八だけが、この大門を締めて、そうして与八自身も出立してしまったものと、村人
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