。まあ、ここに生年月が書いてある、生年月ではない、何月何日、武蔵野新町街道捨児の事……与八さん、この涎掛がその時、お前さんがしていたものなのよ。御先代様が、こうして丹念に取ってお置きになったのを、お前さんに見せる折の無いうちに、お亡くなりになったものと見えます。今日になって、これが出て来たのも、本当に因縁《いんねん》じゃありませんか」
「ああ、そうだったか――」
 与八は、染色のあせた涎掛を、お松の手から受取って、両手で持ったまま、オロオロと泣き出しました。

 それから三日目、村人や教え子が寄り集まって、留別と送別とを兼ねたお日待でしたが、いずれも事の急に驚いて、泣いていいか、笑っていいか分らない有様です。
「末代までも、この地にいておもらい申すべえと思ったに、こうして急にお立ちなさるのは、夢え見ているようでなんねえ」
と言って泣く者が多いのです。こんな時に、お松はかえって涙を隠す女でした。そうして、一層の雄々しさを見せて、人を励ますことのできる女でした。
「皆さん、会うは別れのはじめ、別れは会うことのはじめですから、どこの土地へ行きましょうとも、また御縁があれば、いつでも会われます
前へ 次へ
全323ページ中237ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング