落ちましたので、遠慮を致して隠れておりました」
「そんなに遠慮することはあるまいに」
と言いながら、兵馬は篤《とく》と見ると、頭から着物そっくりぐしょ濡れになってはいるが、御膳籠《ごぜんかご》は放さない。どう見ても、紙屑買い以外の何者であるとも思われません。なるほど、早立ちをしてここへ来ると、吾々の物言いを見て、物蔭に避けていたのが、痴話が長いので、堪え兼ねて飛び出したのかも知らん。そうだと思えば、そうも受取れる。それにしても、怪しいといえば怪しいとも思われる。
 そこで、兵馬は抑えながら、懐中へ手を当ててみて、
「何も持っておらんな」
「この通り、仕入れの財布だけでございます」
「そうか」
 憮然《ぶぜん》として、兵馬も、この者を放ちやるほかはないと決めた時、一方の柳の木の方で女が、
「おや、あなたはどなた?」
と言ったのが、兵馬の耳には聞えませんでした。

         六十七

 兵馬が、紙屑買いを糺問《きゅうもん》していることの瞬間、後ろの女のことは暫く忘れておりました。
 忘れて置いても安心というところまで、介抱が届いていたからではあるが、この怪しの者を、最初から屑屋なら
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