ふりをしているのか。一方からいえば、それで風波を起さずに抑えているところは、どこかに、あの女の度胸だとも、器量だとも言えないことはない。
 だが、度胸にしても、器量にしても、それは浅ましいものだと、兵馬には感ぜずにはおられません。そうしてその浅ましさが、今は一途《いちず》に、自分の方へ向って圧迫されて来ることを感ぜずにはおられないのです。
 一日も早くこの地を立った方がよいと思っている一方に、またあのお代官の引力がなんとなく強い。あのお代官はお代官でまた極力、この自分を引留めて置きたい了見《りょうけん》が充分にある。その了見を露骨にしないで、搦手《からめて》からジリジリと待遇をもって自分を動かせないようにして手許へ引きつけて置きたいとの了見がよくわかっている。兵馬は、それをいいかげんに振りきって、出立せねばならぬと思いつつも、その待遇についほだされてしまう。なにも特別の義理はないし、人物に対しても、そう離れられないほど、尊敬も心服もしているのではないが、このお代官にある力で引きつけられて、急に腰をあげられないような気持にされているのが不思議だ。
 お妾の色目と、それとは全く別なことはわ
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