眼に余るところも見えないではないが、兵馬のわけて気になるのは、どうも自分に向ってまで、眼の使い方が解《げ》せないことがある。それが、日一日と強くなって、あの火事の騒ぎの晩なぞは――兵馬はその晩のことを思い出して、いよいよ変な気になりました。
 このお部屋様が、自分に誘惑をやり出している、ということが、ハッキリわかってくると、全くイヤな心持です。
 ただ、イヤな心持ではなく、二重にも三重にも、イヤな心持がするのは、自分のほかに、ここに召使われている誰彼の用人、小姓、みんなあれと同様の色目にあずかっているらしいからで、そうして、自分が新しくて珍しいものだから、特別に――という思わせぶりがたっぷりだからです。
 つまりこうして、自分をおもちゃにしてみようといういたずら心なのだ。そうして、そのおもちゃになりつつ、表面は至極心服の態《てい》に見せているものが、現にこの邸の中に一人や二人はあるらしい。それでも、おたがいたちのうちに鞘当《さやあ》ても起らないし、お代官そのものもいっこう悪い顔をしないのは、お人好しで全く気がつかないのか、或いは自分が相当の食わせ者であるだけに、気がついても、見て見ない
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