それは彼の俊敏な五官の一つに響いて来たものの音、やや遠く近く、櫓拍子《ろびょうし》の音が、この海から聞え出したからです。
そこで、くるりと海の方へと向き直った茂太郎は、直ちに、程遠くもあらぬところに、一艘《いっそう》の小舟が櫓を押して通り過ぐるのを認めました。どうも、今時、この海を、岸づたいとは言いながら、あの小舟で乗りきることに、少々の意外さを感じながら、きっと闇を通して見たのは、その舟の中です。
茂太郎の眼は、たしかに異常です。異常なのは眼だけではありませんが、その眼は特別によく働く機能を授けられている。それにこのごろは、天文を見ること、星を数えることに、毎夜の如く慣らされているから、その感覚が一層精練されて来ているようです。
それですから、暗夜でも物を見るのは、さして苦としないのを、今夜は形《かた》の如き月夜ですから、眼の前を通る舟の中を見定めてしまうことは、なんでもありません。
「あ!」
そうして、ここでもまた、あっ! と驚かねばならないものを発見しました。
今、現に、櫓《ろ》を押しているその人は……それこそ、自分が現に極度の同情を寄せていたマドロス君その人ではな
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