いか。
 そうしてまた一方、舳《みよし》の方に、もう一人いる。それとても別人ではない、昨今、遠方からここへお客に来ている七兵衛というおじさんではないか。
 さしもの茂太郎が、そこで途方に暮れてしまいました。
 あの天神山で焼き殺されているマドロス君がマドロス君であるならば、今、ここを小舟で通り過ぎているマドロス君がマドロス君であり得るはずがない!
 どうしたのだろう?
 そこで思い乱れた茂太郎は、前後の思慮もなく、大声をあげてしまいました、
「マドロスさあーん」
 舟の櫓拍子は相変らず聞えるけれども、返事はありません。
 では、あの過ぎ行く舟の中の人はマドロスさんではないのか――いや、たしかに、あれがマドロス君でなければ、ほかにマドロス君があろうはずはない。
 もしかして、自分の眼に誤りがあったのかと、ちょっと眼をそらして天の方を見ると、いつも見るカシオペヤも、オリオンも、月光に薄れながらはっきりと見える。海の波も、陸の色も変りはない。ひとり、この眼でマドロス君だけを見誤るはずがない。そこで、茂太郎は二度《ふたたび》、大きな声で呼んでみました、
「そこへ行くのはマドロスさんじゃないかエ
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