現われようとするに違いない。
五十一
このたびの大火にあたって、いつぞや、宇津木兵馬が触書《ふれがき》を読んだ高札場《こうさつば》のあたりだけが、安全地帯でもあるかのように、取残されておりました。
歯の抜けたような枝ぶりの柳の大樹までが、何の被害も蒙《こうむ》らずに、あの時のままですが、今晩この夜中に、天地が寂寥《せきりょう》として、焼野が原の跡が転《うた》た荒涼たる時、その柳の木の下に、ふと一つの姿を認められたのは、前の桜の馬場の当人とは違います。
その者は、三度笠をかぶって、風合羽《かざがっぱ》を着た旅の人。
いつのまにやって来たか、この寂寞《せきばく》と荒涼たる焼跡の中の、僅かな安全地帯に立入って、柳の木の蔭に立休らい、いささか芝居がかった気取り方で、身体をゆすぶって、鼠幕のあたりを、頭でのの字を書いて見上げたところ、誰か見ている人があれば、そのキッかけに、「音羽屋《おとわや》!」とか「立花屋《たちばなや》!」とか言ってみたいような、御当人もまた、それを言ってもらいたいような気取り方だが、あいにく誰もいない。
人の見ていると見ていないに拘らず、こん
前へ
次へ
全323ページ中163ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング