に馬子を斬ろうとしたのは事実で、斬ろうとするに、その風向きを見はからっているうちに、馬に奔逃《ほんとう》されて、斬るべき機会を失って、我ながら呆然《ぼうぜん》として、見えぬ眼に走る馬を見つめて、暫く立ち尽していたことも本当です。
 ことさらに解説するまでもなく、今晩、このところで、この馬子を斬らねばならぬ必要も意趣も、寸分あるのではない。馬子風情を……といったところで、斬った時の斬り心地には、馬子も、大納言も、さして変りあるべしとは思われない。
 この男が馬子を斬ってみようとしたのは、御用金を奪おうという経済の頭から出たのではなく、芝居気たっぷりの片手斬りに大向うを唸《うな》らせようという見得《みえ》から出たのでもなく、はしなく嗾《そそのか》し得たり少年の狂――と春濤がうたった通りの、土地の空気がさせた魔の業と見るよりほかはないでしょう――尤《もっと》もこの男ははや少年の部ではないが、血気はまだ必ずしも衰えたりとは言えますまい――こうして、苦笑いしながら地上に落したところの杖を取り上げて、越中街道の闇に、行先は、ただいま逃げた馬と同じ方向ですが、目的としては、高山の町の目ぬきのあたりへ
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