が、仮りの二夜の宿となった屋形船のもや[#「もや」に傍点]っていたところ。なるほど、船もあの通り見えている。
 筆を半ばにして、お雪ちゃんはその活きた地図に線を引いていたが、昨日までもや[#「もや」に傍点]っていた屋形船のところに至って、はっ! と胸が早鐘をつくように鳴り出したのは、それと多くも隔たらないところの、川原の中の蘆葦茅草《ろいぼうそう》の中から、今しも盛んに火が燃え出したところです。
 またしても火事! と災難の再来に狼狽《ろうばい》したのではありません。その火と、火事の火とはおのずから性質の違うこともわかっているし、またあんなに、川原の中で火事を起すはずもなし、起したからとて、前回のような危険をもたらすおそれはないが、その火の手の揚った地点から、今まで忘れるともなく、忘れていたような浅ましい光景が、むらむらと、あの火の煙よりも濃く、お雪ちゃんの頭に湧き上ったからです。
 あんな怖ろしいこと――あれが、ほんの少しの間だが、今まで忘れられていたようなのが不思議なくらいです。あれをあれっきりで納めて見向きもすまい、思い出しもすまいとの全努力が、ようやくお雪ちゃんを、ここまでにし
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