まりお雪ちゃんをして、気絶もさせない、逆上もさせなかった一つの事情でありました。
 それで、はあはあと嵐のような息をついて、屋形船の一方の柱にとりついて、お雪ちゃんがためらっていると、それとは知らぬ、土手の往来に面した一方の片側で、久助さんと、堤上を通る旅人との問答、
「存じません」
 これは久助さんの返事。
「知らない、では古川を経て、越中の富山へ出る道はドレだ」
「ええ、それも存じませんでございます、何しろ……」
「それも知らないのか。三日町から八幡《やわた》の方へ行くのはどうだ」
「お気の毒でございますが、何しろ、昨日今日……」
「やっぱり知らないと申すか。しからば、船津へ出る道、そのくらいは知っているだろう」
「それもその……」
「それも知らんのか。では、いったいこの宮川という川は、越中へ行くのか、加賀へ向うのか、結局、どこへ落ちるのだ」
「え、その辺も……」
「加賀の白山、白川道は知ってるだろう」
「それもその……」
 土手で横柄《おうへい》にたずねるのは、この辺の百姓町人の類《たぐい》でないことはわかっているが、人もあろうに、久助さんに土地案内を聞くとは間違っている。まして
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