けてしまった腰を立てながら、後退《あとずさ》って逃げてしまった男の形が眼に見るようです。それを逃がして追わず、そのあとで竜之助が、歩みよってそこに感得した何物かの物体を撫で廻してみると、それは動かない長い箱でした。つまり、撫でてみてはじめて長い箱の存在を知ったので、最初、立ち止ったのは、ここに白木の長い箱が存在することを怪しんで、そうして、不審とながめている間に、死人が動き出したという順序ではなかったのです。
 撫でてみて、はじめて、かなりに長い箱だと感触したが、それが白木であって、手ざわりからすれば、当然寝棺と気のつくまでに、竜之助の手先に触れたのは、その寝棺の上にふわりと打ちかけてあった、一重《ひとかさ》ねの衣類でした。
 竜之助は、その長い箱が白木であるか、塗物であるか、寝棺であったか、長持であったか、まだわからない。その上にのせられた一重ねの着物のみが手にさわると、
「ははあ、これを盗みに来たのだな、今の奴は、これを盗もうとしてこっちの姿に驚かされたのだ」
とわかりました。

         三十七

 しかし、この長方形の存在物が、人間というものの最後のぬけ殻を入れた器物の
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