る好下物《こうかぶつ》を、気取《けど》ったことは気取ったが、そのものの質を知ることはできないのです。
 白木の寝棺を距《へだた》ること、ほぼ一間のところで、立ちどまって、うかがっているのは、その寝息を見るもののようです。
 宮本|無三四《むさし》は、佐々木|巌柳《がんりゅう》を打ち倒しても、まだその生死のほどを見極めるまでは、近寄ることをしなかった。それは無三四に限ったことではない、ワナを上手に外《はず》す動物は、どんな好餌《こうじ》があっても、そうガツガツと、いちずには近寄ることをしないものです。
 ここに、俄然、一つの食べ物を感得したからといって、一概に貪《むさぼ》りかかることをしないのは、武術の達人の残心のうちの一つと称すべく、知恵ある動物の陥穽《かんせい》を避ける心がけと言ってもよい。それそれ、果して、この寝棺の一端が動き出したではないか。
 寝棺が動き出すということが、もう只事ではない。
 こっちがその心で、じっと気合を伏せて見まもっていたものだから、先方も、もう我慢がしきれなくなって、化けの皮を現わしてしまったのだ。
 死人を入れることにのみ専用するものと見せた寝棺が、生き
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