疲れがさせる鼾《いびき》の声。
 ひとり、竜之助だけが眠れないものですから、そろそろと起き上りました。

         三十五

 立ち上った時には、竜之助は、昔、甲府城下の夜の時したように、その後は、本所の弥勒寺長屋《みろくじながや》にいた時分の夜な夜なのように、面《かお》を頭巾《ずきん》に包んでいました。
 ただ、今宵は、自分の今まではおっていた羽織だけを脱いで、それをどうするかと見ると、寝息をたよりに、お雪ちゃんの体の上へ、ふわりとのせて置いて、それで自分は煙のようにこの船の中を外へ出てしまいました。
 その足どり、ものごし、手に入《い》ったようなもので、人間そのものがここを脱け出したとは思われません。煙が一むら、すうっと、窓を抜けたようなあんばいに、いつしか、竜之助は屋形船の外の人となっていました。
 外へ出ると、天地は、飛騨の高山の宮川の川原の中です。
 川原の中を、すっくすっくと歩み行く竜之助、久しぶりで壺中《こちゅう》の天地を出て、今宵はじめて天と地のやや広きところへぬけ出したから、この辺から雲を呼んで昇天するというつもりでもないでしょうが、ほんとうに久しいこと、自由
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