ありませんか」
「それは男のことだ、門を出れば、時と場合で、思ったようにばかりはいかぬ」
「時と場合もよりけりですね、わたしは異人館で、どのくらい、あなたをお待ちしたか知れません」
「おれは都合あって、築地へ行くのは取止めたが、お前に、こんなところへ立寄れとは言わない」
「わたしは、お義理でまいりました」
「誰への義理だ」
「異人館の異人さんが、ぜひ、日本の踊りを見たいとおっしゃるから、わたしが、内密《ないしょ》で御案内して来ました」
「異人を連れて来たのか」
「はい」
「お前と、異人と、二人でここへ来たのか」
「金公も一緒にまいりました」
「金助が……そうして、その異人と一緒に、ここへ泊りこんだのか」
「御冗談でしょう――異人さんは踊りを見ると、そのまま帰ってしまいました」
「お前は、なぜその足で根岸へ帰ろうとはしなかった」
「もう、遅くなりましたからね」
「うむ、金助はどうした」
「金公も、異人さんを取持って、昨夜《ゆうべ》のうちに帰ってしまいましたよ」
「うーん」
 主膳は、ここで行詰まったようなうめきを立てました。その頭は、やっぱりつむじ風のように捲いている。
 一通りの詰問には、一通りに答えてのけたこの女の言い分を、そっくりそのままに承認できるか。このうえ是非を言わさぬことは、泊った座敷というのへ踏み込んで見るばかりだ。
 主膳はこう考えてしまうと、あちらを向いて楊子《ようじ》を使っているお絹を、肩越しに睨まえながら、
「では、お前の座敷へ行って、おれは一服しているよ」
「いけません」
「どうして」
「わたしが面《かお》を洗うまでお待ち下さい、一緒に参りますから」

         九十五

 神尾主膳は、その日、根岸へ帰るとて、山下まで来ると、上野の山内を歩いてみる気になって、そこで乗物を捨てました。
 乗物を捨て、頭巾《ずきん》をかぶって、山内へさまよい込んだのは、何か鬱屈《うっくつ》して堪え難いものがあるからです。その息づまるような胸苦しさを晴らそうとして、そうしてワザと、上野の山のひとり歩きでも試みるという気になったものかも知れません。
 かくて、知らず識《し》らず東照宮の鳥居をくぐってしまった時に気がつくと、かぶっていた頭巾に、知らず識らず手がかかりました。
 それは、殊勝な信仰心がそうさせたのではない、習慣が、本能に近くなったようなわけでしょう。苟《いやしく》も祖先以来、徳川家の禄を食《は》んで、その旗下の一人として加えられて来た身であってみれば、忠義だの、崇拝だのという心が有っても無くても、ははあ、ここは「東照宮」であったな、と感じないわけにはゆかなかったのでしょう。
 家康という不世出の英雄があって、三百年の泰平があり、そのおかげで日本国の――少なくともこの江戸の繁昌があり、我々旗本の安泰と、驕慢《きょうまん》とが許されたのだ、その本尊様の霊を祀るところがここだ――
 主膳の頭巾に、知らず識《し》らず手がかかったのは、うつらうつらでもここまで来てみれば、さすがに素通りはできない――という習慣性に駆《か》られたようなものでしょう。それとも、敵に後ろを見せるのが癪だ、という反抗気分かも知れません。
「よしよし、鬼の念仏だ、久しぶりで東照権現に参詣して行っても、罰《ばち》は当るまい」
 こう思って、頭巾を外《はず》しながら東照宮の神前まで、神尾主膳が進んで行きました。
 この鋪石《しきいし》の上で、主膳はふと、さんざんに引裂かれた一つの御幣《ごへい》の落ちているのを認めました。
 その御幣も容易なものではない、重い由緒ある神前でなければ見られない御幣である。それが無残に引裂かれ、打砕かれて、あまつさえ、土足で蹂躙《じゅうりん》してある痕跡が充分です。
 合点《がてん》ゆかずと、なおも歩んで行くうちに、今度は、さんざんに砕かれた、光るものの破片を認め、それが鏡であることを知り、その鏡も尋常の品ではなく、やはり由緒深い神社の神前でなければ見られない性質のものであることを、直ちに認めました。
 なお、行くことしばらくにして、あろうことか、コテコテと人間の尾籠《びろう》な排泄物が、煙を立てている。
 主膳はムッとして、面をそむけて通り過ぎましたが、宮の前に来ると、そこにまた異様なものを認めないわけにはゆきません。
 人間の生首《なまくび》――といっても、幸いに肉身の生首ではなく、どこから何者が取り来《きた》ったのか、相当の木像の首が、三尺ばかり高い台の上に、厳然と置き据えられて、その傍らに捨札がある。
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逆賊  足利尊氏の首
同   弟 直義の首
[#ここで字下げ終わり]
 主膳はムカムカとしました。
 その途端、後ろの方、社司の住居あたりで、甲高《かんだか》い人声がする、
「申し分があらば
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