ここに泊りに来るはずもあるまいではないか。
もしや、自分の行動をよそながら監視に来て、泊り込んだものでもあるか。それも馬鹿正直な見方だ。第一、あの女が、こちらから監視をつける必要こそあれ、おれの遊びにいちいち、眼をはなさないほど、こっちを重んじているか、いないか。
偶然――おれがここへ泊ったのが偶然なら、あの女がここへ泊り込んだのも偶然だ、偶然の鉢合せとしたら、議論にはならないが、事柄はいよいよ妙じゃないか。第一、おれの偶然の方には、偶然たるべき理由があるが、あいつには何の理由がある。
あいつは、今日、異人館を見に行ったのだ。朝から出かけたから、晩までには当然、根岸へ帰っていなければならないのだ。おれの方は、なるほど、あとから行くといっておいたことに相違ないが、そういう約束が、今まで完全に守られているか、いないかは、あいつがよく知っているはずだ。約束はしたけれど、途中から気が変って、ここへしけ[#「しけ」に傍点]こんだのに、何の不足がある。それだのに、晩までには根岸の屋敷へ帰っていなければならないはずのあいつが、ここへ泊り込んでいるとしたら、全然、理由がなりたたないじゃないか。
主膳は、ここで、むらむらと自分勝手の邪推の雲が渦になって、胸から湧き上りました。
「よし、見届けてやる、今のあの声の主が、お絹であろうはずはないけれども、もし、あいつであったらどうする。いずれにしても、こうなった上は、この眼で、篤《とく》と見定めてやる、この眼が承知しない」
というのは、今のはただ耳だけの判断に過ぎない。一方口を信ずるは、男子の為さざるところだから、この上は眼に訴えて、のっぴきさせず――という気になった時に、その二つの眼の上に、意地悪く控えている牡丹餅大《ぼたもちだい》の一つの眼が、爛々《らんらん》とかがやきました。
もう眠れない、また眠る必要もないのだが、この上は、眠らない以上に働かせねば、この眼が承知しない。
こう思うと、三つの眼が、ハジけるほどに冴《さ》え返って、胸の炎が、むらむらと燃え返って来たようです。
といって、主膳には主膳だけの自重もなければならない。このまま取って返して、あの寝間へ踏みこんで、得心のゆくまで面《かお》をあらためてやる――にしても、万一、あいつでなかったらどうだ。
あいつであったとしても、あいつが果して、どういう寝相《ねぞう》をしている。そんなことを思うと、胸がむかむかする。酔うている時の主膳なら知らぬこと、とにかく、こう頭がはっきりした時であっては、自分というものを、自分で考えてみれば、みすみすそれと分っても、このまま他の室へ乱入するということは、紳士(?)として許されないことだ、できないことだ。
「ちぇッ」
夜の明けるまで待つよりほかはない。夜が明けたら、あいつもそう朝寝もしておられまいから、なるべく早く身じまいをして、出かけるだろう。その時に透見《すきみ》をして、有無《うむ》を言わさぬことだ。
「うむ、ここでは朝風呂をたてる、おれは寝過したふりをして、あいつが風呂場へ行く頃を見計らって、篤《とく》と実否をたしかめるに、何の仔細はない」
なんにしても早く夜が明けろ――主膳は蒲団《ふとん》の中で、途方もなく悶《もだ》えている。
九十四
夜が明けて、その正体を見届けることは、極めて簡単な仕事でありました。
風呂場に近い洗面所の鏡の前で、その女をつかまえることの無雑作《むぞうさ》であったように、その正体を見現わすのも、極めて無雑作なもので、
「お絹じゃないか」
「まあ、あなた」
どちらも、その意外であったという心持は同じことで、ただ一方が怒気をふくんで難詰《なんきつ》の体《てい》なのと、一方が体裁をとりつくろうことに、あわてまいとしている心組みだけが違うらしい。
「どうしてこんなところへ来た」
「それは、あなたこそじゃありませんか」
お絹は、やり返したつもりであるが、主膳は肯《き》かない。
「おれの来るのは勝手だが、こんなところは、お前の来るところじゃない」
「ずいぶん手前勝手ねえ、わたしが来て悪いところなら、あなただって、立寄れないはずじゃありませんか」
「理窟を言うな、いったい、何しに来たのだ」
「何しに来たっていいじゃありませんか、あなたこそ、何しにおいでになりました」
「おれは、気が向いたから来たのだ、お前はこんなところへ来るはずではなかった」
「わたしだって、気が向かない限りはございません……第一、あなたこそ、あれほど約束をなさっておきながら、どうして、異人館へおいでにならなかったのですか」
「うむ、それはな、都合によって途中、気が変ったまでだ」
「途中、気が変った方は、それでよろしうございましょうが、変られた方は、みじめ[#「みじめ」に傍点]じゃ
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