こまで見てやりたいという悪辣《あくらつ》な好奇心から、興行主の座元へいくらか掴《つか》ませ――二両やったとかいう話だ――世話人二人にいくらか鼻薬をやって渡りをつけたところが、その世話人という奴の中に、一人、かねがねこのおくらを口説《くど》いていた奴があったが、おくらがうんと言わないものだから、それを遺恨に思っていたところへ、この話だったものだから、こいつが真先に呑込んで、それからおくらにいやおうなしに「娘一人に聟八人」をやらせたものだ。
つまり、男座頭を八人集めて土俵へのぼせ、それをおくら[#「おくら」に傍点]一人に取組ませるのだ、一方はめくらだからめくらさがしだが、狭い土俵の上で八人の男、十六本の手、足ともでは三十二本でやられるのだから、いくらめくらさがしだってたまらない、ついにおくらがつかまって手取り、足取り……それは見ていられたものじゃない。
神尾がそこまで話すと、大女のおせいも、さすがに眉をくもらせて、
「かわいそうですね」
「そうなると、お前も同情してくるだろう。ところで、そういう時、お前ならどうだい、座頭の八人ぐらい何の苦もなく手玉に取るだろうな」
「そうはゆきますまい、一人と八人ではいくらなんでもね」
「は、は、は……お前でも、やっぱりやられるかい」
「わたしだって、苦しいわ」
苦しいわ、と言って、自分ながら大きな肉体に圧《お》されるような苦しさから、息をせいせいはずませている。
神尾主膳は、苦しそうなおせいの肉体を痛快らしくながめて、飲みほした盃を黙ってその前に置くと、おせいは脆《もろ》くもこれにまた、なみなみと注いでやりました。
それを飲みながら神尾主膳が、ニヤリニヤリと大女の形を見ていると、その大女が、
「そんなにわたしの身体ばかりを見ておいでになっては、溶けてしまいますよ」
「あ、本当だ、そら溶け出した、溶け出した」
九十
「は、は、は、は」
神尾主膳が、またも突然高笑いをした時に、力持のおせいが飛び上って慄《ふる》え出しました。
これは実に、怖るべき酒乱が突発して来る前兆でありましたけれど、はじめてこの人を見るおせいとしては、その主膳の怖るべき酒乱の予感から、怖れて飛び上ったのではありません。「は、は、は、は」と笑い出した途端に、主膳の三つの眼が、ギラギラと光り出して、脇息に肱《ひじ》を持たせている主膳の姿が、急に大女の自分をさえ圧迫するほどの大きさになったから、慄え上って飛び出したものです。
「あ、三ツ目入道……」
その瞬間に、そう思ったのです。よくお化け話で聞いておどかされている三ツ目入道というのがある、絵草紙でも見たが、あれだ、この人はその三ツ目入道だ、これは人間ではない、怖ろしいお化けだと感じました。
そこで、監視役も、取押え方心得も、盃も、盤もおっぽり出して、下の座敷へ逃げ下りてしまいました。
「は、は、は、は」
神尾主膳が三度目に笑ったのは、それは少し凄味が欠けて、和気が加わったようです。
つまり、前の笑い方は、怖るべき酒乱の前兆としての高笑いでしたけれど、今度のは、滑稽噴飯《こっけいふんぱん》が加わってのおかしさから来ている笑いが多分のようです。それは大女の恐怖と、狼狽ぶりが、あまりに仰山であったからでしょう。
これより先、下の座敷では、いったん出かけて行った金公が、またコソコソと立戻って来て、お倉婆あと内密話《ないしょばなし》を試みている。
その内容というのは、今日、人に誘われて、築地の異人館へ見物に行ったが、万事なかなか大がかりなものであること。ところで、その異人館の大番頭が、らしゃめん[#「らしゃめん」に傍点]の口を一つ欲しがっている。そいつをひとつ、桂庵《けいあん》をつとめて儲《もう》けようと思うんだが、なんとおっかさん、お前に一肌脱いでもらいてえというのはそこなんだよ、ということにあるらしい。
「そいつは耳よりだね」
慾に目のないお倉婆あが、耳をふくらませると、金公が続いて、一口にらしゃめん[#「らしゃめん」に傍点]というけれど、いかに西洋人の相手になることが、へたな日本人の相手になることよりも、有利な事業であるかを説いて、お倉婆あの耳をいよいよふくらませる。
だがねえ、話の口は、そのらしゃめん[#「らしゃめん」に傍点]にもなかなか先方に好みがあって、第一、芸妓や、女郎衆の、金で自由が利《き》く奴ではいけず、そうかといって、伊豆の下田の唐人お吉なんていう潮風の染《し》み過ぎたのでもいけず、お膝元の固いところでは、いくら困っても、娘をらしゃめん[#「らしゃめん」に傍点]にでも仕立ててみようというほどに開けた奴はいねえ。素人《しろうと》ともつかず、玄人《くろうと》ともつかず、娘でなく、年増でなく、下司《げす》ではいけないが、そうかとい
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