姿形を、頭に残していようはずはないにきまっている。
主膳は、この思いがけない大女の出現と、その大女が、酒をすすめるためでなく、禁酒の監視役として出張して来たような態度に、相当興をさまさないわけにはゆきません。
「一杯ぐらいはよかろう、ほんの一杯飲ませてくれ――相手の来るまでの退屈しのぎにな」
「少しぐらいならかまいません」
「許してもらえるかな」
「飲み過ぎて、酒乱を起しさえしなければ、差支えはございません」
「差支えないか」
主膳は、お茶屋へ、酒飲みの請願に来たような心持で、いっそ、多少の愛嬌をさえ感じたらしく、
「さしつかえなくば、ほんの少々のところ、お下げ渡しが願いたい」
「お待ちなさい、わたしが、おっかさんに相談して、差上げていいと言われたら、差上げることにいたします」
「そうか、では、おっかさんに相談して、ほどよいところを少々、お恵み下し置かれたいものだ」
「待っておいでなさい」
大女は、のっしのっしと出て行ったが、その後で、神尾主膳は呆《あき》れがとどまらない。
それでも、しばらくして、酒盃をととのえて来て、主膳をもてなすだけのことはしました。
お酌《しゃく》もすることはするが、どこまでも、自分が監視して飲ませるのだ、特にこのお客に限っては、本部からの監視命令があって、飲ませるには飲ませても、程度がある――といった申附けを、露骨に遵奉《じゅんぽう》している手つきが腹も立たないで、いよいよお愛嬌だ。
八十六
でも、この監視つきのお酌で、一杯、二杯と傾けているうちに、相当にいい心持になって行くのは奇妙だと思います。
これは、へたな御機嫌取りの取持ちや、見え透いたお世辞者よりも、この大女にしてお酌と監視役とを兼ねた山出しが、時にとっての愛嬌となったためでしょう。大女のぎこちないお酌のしっぷりが、かえって興を催したものだから、神尾主膳は、いい気になって立て続けに二杯三杯と呷《あお》り、女が狼狽《ろうばい》ぶりを、いよいよおかしく、まじまじとながめて、ようやく悦に入り、
「大きいなあお前は。いったい、目方は何貫あるんだ、カンカンは」
「生れつきだから、どうも仕方がありません、痩《や》せたいと思っても、痩せられやしません、削るわけにもゆきませんからね」
「強《し》いて、痩せたり削ったりするには及ぶまいではないか、世間には肥りたがって苦心している者もある」
「商売をしている時は、肥っていてもいいが、こうして御奉公をしている時は、痩せていた方が、どのくらい楽か知れないと思いますね」
「商売――肥っていてもいい商売というのは何だ」
「楽をしていると、かえって肥りますねえ」
「うむ、苦労をすると人間は痩せる、お前なんぞは苦労が足りないのだ」
「ずいぶん、苦労もしましたけれど、なかなか痩せませんね」
「ちっと、親肉《しんにく》を切って売り出したらどうだ。いい肉だなあ、豚一の殿様へ持って行けば、物言わず一斤二十匁でお買上げになるぜ」
神尾は、力持のおせいの肉体を、着物の外れからつくづくとながめているうちに、その眼の中に、皮肉と険悪の色が、そろそろと溢《あふ》れ出して来ました。
通常の人は、物を見るのに二つの眼を以てするけれども、神尾主膳は三つの眼を以てするのです。ことに、弁信法師から、真中の特別な一つの眼を授けられて以来というものは、父と母とから与えられている二つの眼が、むしろそれを見まいとして避ける場合にも、その一つだけが、パッカリとあいて、最後まで、それを凝視していなければやまないようです。
日本橋で、僧侶の生曝《いきざら》しを徹底的に見まもっていたのがこの眼でした。そして、僧侶という人間界の特別階級の為せる汚辱と、冒涜《ぼうとく》が、白昼、俗人環視の真中で曝されていることを見て、その眼が、痛快な表情を以てクルクルと躍り出したかのように、かわるがわるその曝し物を貪《むさぼ》り見て、飽くことを知りませんでした。
これは、単にこの事にのみ限った例ではありません。すべて、その視力の及ぶ限りでは、人間というものの間に行われる、すべての汚辱と冒涜、破倫と没徳、醜悪と低劣、そういうものに向っては燃えつくような熱と、射るような力を以て、それを見のがすまいとはしています。見出したが最後、それが燃え尽すまでは、見捨てるということは不可能らしい。
坊主の冒涜ぶりを貪看《どんかん》して、飽くことを忘れたこの眼が、その坊主が、蔭間《かげま》という人間界の変則なサード種族に似ているという偶語を聞いてから、その凝視から一時解放されると共に、今度は、その蔭間というやつを見てやらねばならぬ――という熱と力とに変化してきたのは、当然のような経路でありました。
この眼こそは、人間というものが、極度まで汚さるるところを見たい
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