きない。
こうしているところを見ると、つまり、自分が世間を翻弄《ほんろう》しているつもりでいても、結局、世間から翻弄されて、浮草と同じことに、落着くところが無い。事実は、あんなのが、正直者かも知れない。
そこで、兵馬はゆくりなく、吉原に於ての過去の夢を思い出し、悔恨の念と共に、あの時の相手がここに現われた女と、境遇はほぼ同じでも、行き方の全く違ったことを考えずにはおられません。この女の、こうして落着きも、だらしもないのに引換えて、いま考えてみると、あの吉原の女は賢明というものかも知れない。朝夕坐っていて客をあやなし、客のうちの為めになりそうなのをつかまえて、なんのかんのと言いながら、そこへ納まって、かなり完全に、一生涯の生活の保証をつけてしまう。その間に親へ仕送りをもすれば、役者買いの費用をも産み出す。今晩現われたあの芸妓だって、それだけの打算と手管《てくだ》がありさえすれば、こんなだらしのないことにはなるまい。
なまじい意地があるとか、涙もろいとか、なんとかいうことで、抜けられず、深みにはまって行って、自暴《やけ》が自暴を産み、いよいよ抜きさしのならぬところへ進んで行くのではないか。そうだとすれば、実に気の毒千万のものだ、と兵馬らしい同情の念が起りました。
この同情が兵馬の弱味でしょう。一旦解決をしてしまいながら、後から同情の追加をしなければならないところに、いつも兵馬の弱味がある。この若者はいつになっても、徹底的に人を憎みきれない純良性から、脱することはできないらしい。
そう思って、同情はしてみても、眼前、このだらしない、ずるこけ落ちた緋縮緬《ひぢりめん》の品物を見せられると、うんざりする。ひとのことではない、自分が嘲笑されているような気がする。昔、ある城将が、容易に城を出ないのを、攻囲軍が、女の褌《ふんどし》を送ってはずかしめたという話がある。こんなものが落ちていました、これはお前の物じゃないか、と言って、あとから追いかけて還附してやる気にもなれない。とにかく、生酔い本性たがわずに、戻るべきところへ戻って、ぐっすり寝込み、明日はまた宿酔《ふつかよい》で頭があがらないのだろう。厄介千万な代物《しろもの》!
ぜひなく兵馬は、足もとで、そのゆもじ[#「ゆもじ」に傍点]を蹴飛ばし、蹴飛ばして、高札場の後ろまで蹴飛ばしてしまいました。
これは蹴出しというものか、ゆもじ[#「ゆもじ」に傍点]とでもいうのか、それとも腰巻か、ふんどしか、何というのが本名か知らないが、兵馬は、その緋縮緬のずるこけ落ちた代物を、さんざんに蹴飛ばしておいて、その場を立去りました。
六十九
その翌朝になると、まず兵馬は、昨晩、高山の市中に変ったことはなかったか、その風聞を聞きたい気持に迫られました。
黒崎君に聞いてみると、黒崎君もあれから、邸《やしき》の内は無事過ぎるほど無事で、あんまり無事だから寝込んでしまって、いま、眼がさめたばっかりというような始末。そのほか、家の子郎党、内外の出入りの者からも、何も変った事件が、出来《しゅったい》していたというような報告に接することができませんでした。でも、昨晩のことが、なんとなく気にかかりもする。遠くもあらぬところだから、朝の稽古前に兵馬は邸を飛び出して、昨晩のあの高札場のところまで行ってみました。
昨晩の夜の色を、今朝の朝の色に塗り換えただけで、何の異状はありません。問題の代物はと見れば、これも昨晩、自分が蹴飛ばし、蹴飛ばして置いた通り、まだ、誰人の目にも触れないで、素直に高札場のうしろに、かがまっている。
兵馬はそれを見て、再びうんざりした思いをしながら、焼跡を通って、宮川べりを一巡して陣屋へ戻って来ましたが、その途中も、それとなく、街頭を注意して見たけれども、なんら心にさしはさむべきものを認めることができませんでした。
同じ朝、相応院にいたお雪ちゃん――これも昨晩よく寝られたから、今朝は早く起きました。
そうして、何かと朝の食膳の仕度にとりかかりましたが、水を汲もうとして手桶をさげて外へ出ると、例によって、眼下には高山の町、宮川の流れ、右手が遠く開けて、そうして雪をかぶる山々。
ああ、加賀の白山《はくさん》!
お雪ちゃんは手桶を置いて、その連々たる雪の白山山脈の姿に見とれてしまいました。
どうしたのか、お雪ちゃんはこのごろ、加賀の白山というものに引きつけられている。
「白山の名は雪にぞありける」という古歌が好きになって、もう口癖のように念頭に上って来る。「白山の名は雪にぞありける」というのが、ちょうど自分の呼び名とぴったりするから、この古歌が好きになり、同時に白山そのものが、あこがれの的になったのかも知れません。
それのみではありますまい、夢に入る白山の山
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